四畳半の二十四節気 - 1/8

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一 南瓜

原稿用紙の升目にブルーブラックのインクが滑り、一字、また一字と埋めていく。けれども、原稿用紙の内に広がる世界はまだ何も始まっていない。幾つもの始まりが紡がれ、紡がれたかと思えば二重線を引かれ、消されていく。
そんなことを、昼からずっと続けている。四畳半の書斎に引きこもり、寒さで震える老いた身体に褞袍を引っ掛け、一字、一句……。万年筆を握る指先に痛みを覚え、目も霞み、ようやく原稿用紙に引っ付けるように近付けていた顔を上げる。
目も指も肩も首も腰も、とっくに疲労困憊だった。昔はもっと長い時間文章を書いても疲れなかったのだが、今では、もう、すぐに音を上げてしまう。しかし、この書斎に私の疲労を癒やすものはない。火鉢は居間にあり、布団は寝床の押入れにしまっている。風呂も書斎から遠い。仕事場の文机以外には書籍や新聞が畳に散らばり、押入れすら開けられそうにない。
書斎はいつの間にか、数日前から引きずっている重たい空気で満たされていた。窓を開けようと立ち上がろうとするが、膝が痛む。仕方なく文机の前で、胡座をかく。
喉の渇きを潤すために用意したであろう煎茶は、文机の端で今か今かと役目を待っている。一口飲んでみると、いつ淹れたのか分からないほど冷めていた。
一息ついた息が白かった。書斎はそれほどまでに冷えているのだろうか。ゆっくりと立ち上がり、窓の向こうを見る。濃藍の夜空が広がり、見上げると、細く暗い月が東の空にあった。
それほど深い時間になっているとは思わなかった。行灯を灯すと、書斎はぼんやりと明るくなった。
書斎に時計の一つでも置いた方がいいのかもしれないが、私はあの秒針の単調の音が好きになれず、仕事場に持ち込むことを拒み続けている。しかし、このままでは新聞社が提示した〆切を破ってしまう可能性があり、好悪どころではないかもしれない。
私が友人諸氏のように速筆であればこのような悩みを懐かなくても済むのだが、私は何とか〆切に間に合わせている、という程度だ。〆切の前日、前々日に脱稿できているようにする。
当然今回の原稿もそのつもりなのだが、少し手間取っている。書き出しが上手くいかない。書き出しが上手くいかないと全てが書けない。世の中には書き出しから書かずに自分の好きなところから書き進め、後から書き出しや末に向けて調整をかける者もいるようだが、私はそういうことができない人間だった。
一眠りすれば、頭が切り替わり、明日になれば、原稿も書き進められるようになるだろうか。畳に寝転ぼうとした時、書斎の端に人影があった。小柄な少女が外套に身を包ませ、更に小さくなっている。マフラーと外套の高い襟に白い顔を埋めている。青い瞳だけを隙間から覗かせ、私の背中を見守っていたのだろう。
姪の姿は呆れ返って、微笑した。
「なんて恰好をしているんだい、浦風」
「寒いんじゃ」
と答えた浦風の口から微かに白い息が漏れた。袷に褞袍に分厚い足袋で書斎に籠っている私と外から来たのであろう浦風との体感が違うのは当然だった。私よりずっと幼い浦風は、寒さや暑さという気温の変化に敏感なのだろう。
「僕はそんなことないよ」
「そりゃ、そんだけ着てたら暖かいじゃろ」
仕事に再び取り掛かろうと浦風に背を向けると、手厳しい声が飛んできた。
「センセ、さっきからそればっかじゃの」
「それ?」
「書いては消して、消しては書いて……今日はそういう日なんじゃろ。割り切って、息抜きでもしようや。大切なことやと思うで、うちは」
「そうとも言ってなられない状況なんだよ」
原稿用紙にぐっと顔を近付け、昼と同じようにまた書き始める。しかし、続きは思い浮かばない。浦風が言うように、今日は書けない日と割り切った方が良いのかもしれない。しかし、そう割り切ったところで、明日書けるという保証はない。今日の続きが明日ならば、今日と同じように書けないことだろう。
弱気になった途端、浦風の言葉の端々から甘い香りが漂ってくる。
「今日はもうゆっくりしようや? 顔も酷いし、疲れてとるじゃて」
「ゆっくり?」
「そそ、もうお仕事のことなんか忘れて、ゆっくり」
私の返事を待たずに、浦風は押入れから小さい炬燵を引っ張り出してきた。立ち上がってついでに窓を開ける。文机に片手をつき、細い爪先を伸ばし、腕を伸ばす。窓まで容易に手が届く。少し前まで届かった覚えがあるのだが、随分と大きくなったようだ。
「大きくなったね」
浦風の白い横顔が赤みを帯びていた。品の良い唇が微かに動いたが、声にはならない。私は何も聞き返さず、何も答えず、書きかけの原稿用紙が書斎を舞うのを目で追った。
冷たい夜風が、書斎の淀んだ空気を吹き飛ばす。重い腰を上げ、原稿用紙を拾い上げると、裾や袂の隙間から忍び込んできた夜風が随分と冷たかった。
「……冷えるねぇ」
「じゃろ?」
「ご飯でも用意しようか」
微笑する浦風に、窓を閉めるように指で合図して、障子を開けると、醤油の香りが鼻先を掠めた。掠めたのと同時に、腹が鳴る。今日、台所に向かった覚えはない。窓を閉め、跳ねるように廊下に出てきた浦風の小さな頭を見下ろす。私の訝しむような視線に気付いたのか、浦風は私の顔色を伺うように見上げ、弁明する。
「冬休みじゃけぇ……」
「お前の家ではないよ」
「声かけたんじゃが?」
「いつ?」
「お昼」
「私は何と?」
「んー、って。やし……」
「記憶にない」
「ずるい人じゃ」
唇を尖らせる浦風に、私も心持ち強い調子で返す。
「大人はずるいんだよ」
「怒りん坊じゃけぇ」
「怒っているわけではないんだよ」
「本当?」
「本当だよ。火は危ないから言っているんだよ」
「ごめんなさい……」
「火の番、頼んだよ」
「じゃ、炬燵お願い」
浦風はすぐに笑顔になって、台所に向かう。私はその間、浦風に言われた通り、炬燵の準備をする。押入れの空いた所に書籍を適当にしまい、炬燵が広げられる空間を作る。小さな書斎は、また狭くなった。寝転ぶことができるが、気を付けないと書籍の山に頭や手足をぶつけてしまうことだろう。
白い割烹着姿の浦風が晩御飯と共に書斎に戻ってきたのは、それから少し経った頃だった。
白ご飯も大きな南瓜の煮付け、具の少ない味噌汁も湯気が立っている。冷え込んでいた書斎が、すぐに暖かくなった。煎茶も熱い。舌先を火傷した。浦風は猫のように炬燵に飛び込み、柔らかく笑う。
南瓜に箸を通すと随分と簡単に二つに割れた。味の染みた南瓜だったが、明日にはもっと味が染み、ご飯が進むことだろう。
「明日が楽しみだねぇ……」
浦風も自分が作った物を食べながら静かに、そやねぇ、と幸せそうに呟いた。

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