公募原稿や息抜きの短編を書いている傍ら、本を読むことがあります。
「芥川龍之介の世界」(著:中村真一郎)を読んで、最高に興奮しました。
額縁に入れて飾りたい言葉の数々が、ありました。小説に対する自分のスタンス、読み書きに対するスタイルの全てがここに見出されているような恍惚、高揚感を覚えています。
ですので、以下にその箇所を引用します。長くなりますが、全文読んでいただきますと幸いです。
21 大正
戦争中のある日――といっても日支事変の終り頃だったろう、ぼくらは大学生だったのだから――、ぼくは堀田善衛に、大正時代の小説を読み漁っている、と告げたことがあった。それに対する堀田の答えは今でも覚えているが、自分もちょうど同じことをしている、現在は大正文学をもう一度、評価し直すべきだ、というのだった。それを例の口籠もるような調子でぽつんとひと口にいったのだから、たいへん強く聞こえた。当時から気質的にも環境的にも非常にぼくとは異っていた堀田が、その時代の日本文学に対する不満を医すために同じ大正文学に惹かれている、という事実はぼくに深い感銘を与えた。そうした何気ない言葉のやりとりが、実は青春という精神の形成期には意外に大きな役割を果たすものである。
今、ぼくは「その時代の日本文学に対する不満」と書いたが、それは――昭和十五年頃の我が国の文壇に、「生産文学」とか「国民文学」とかいうような建設的な文学を作ろうという動きが支配的になりつつあり、しかもその建設的な文学が、実は若いぼくらの目からみると文学的精神の衰弱に過ぎない、といった観があった。そうしたものへの不満だった。
つまりぼくは、大正文学に疑いもなく文学が文学であった時代の文学、或いは文学の精髄を見出していたのだった。
同じ頃、高見順もたしか、中戸川吉二、犬養健、佐々木茂索などの作品を読み返し、そこに昭和の文学には失われた「気品」をやはり見出して、昭和文学の寂しさ、といったような感慨を批評文のなかに洩らしていたのを、ぼくは読んで同意した。高見氏も大正文学にやはり、文学における貴重な一要素を発見しているのだ、とぼくは思った。
こう書いて来ると、文学における「大正」というのは歴史的概念であるより、ほとんどひとつの美学的概念だといえそうである。大正期においては、文学は何よりも芸術であった。谷崎潤一郎、志賀直哉、佐藤春夫、芥川龍之介、里見弴、久保田万太郎、宇野浩二の諸家の小説は、その鋭い美意識と、完成に対する激しい欲との点において共通している。そうした芸術至上主義的態度を、自然主義派の作家が、「硯友社の復活」というような言葉で非難したことがあったらしい。硯友社と大正文学には確かに、そうした美的感覚の洗練を目指す点での共通した面があった。その感覚内容は全く異なったものであるが。
そうした意味での大正的特徴が頂点に達したと思われる大正十一年ごろに、芥川龍之介は、「新潮」のアンケートに対して次のように答えている。
「例へば、自然主義なり、人道主義なりの盛時には、作家も批評家も、ある同じ主張を中心に賛否いづれかの動き方をしてゐた。それが今の文壇にはない。作家はおのおの自分の仕事に骨を折つてゐる。その骨の折り方も、各作家の間に共通点があるといふよりも、各作家に独特な境地を拓いてゐるのが多い。」
文学を芸術たらしめようという意識の支配している風土のなかで、各作家は却ってそれぞれに独自の方向を開拓して行った。美意識は文芸上のひとつのイズムではない。それは芸術的態度の細心さ、精緻さに根ざすものである。そこには高見氏が指摘したように、「気品」というような言葉でしか形容できない何かだけが共通していた。しかもその気品たるや、一読直ちに感取され得るような質のよさである。
この時代には作家たちは、今日の知的な作家が同時に批評家である、というのとは異なった意味で同時に批評家だった。彼らは月々の自分の仕事を仕上げると、直ちに同業者たちの作品の批評に転じた。批評の共通の地盤になったのは、やはり小説の仕上がり具合だった。そうした作家の技術批評の最良の実例は、芥川自身の文芸時評である。彼はある作品の主題そのもの、内蔵する思想そのものを批判することは滅多にない。ただ、その作家の意図したものがどれだけ作品に実現しているか、また実現させるためには構成がそのままでいいかどうか、ある部分を省き、他の部分を精しく書くべきではないか、といったふうの微妙な鑑賞を行う。
こうした批評の下に、大正時代は短編小説という文学形式を、おそらく他のどの国でも見られないほどの高い完成にまで齎した。同時に、これも他の国では見られないことであるが、この形式を最も重要なジャンルといて流通させた。短編小説へのこうした意識の集中は、ほとんどフランス象徴派の短かい抒情詩形に対する推敲を連想させるものである。
関東大震災はこうした空気を根底から破壊してしまった。菊池寛が地震によって文学の無力を痛感したということは有名な挿話であるが、この感想が痛烈なのは、その日まで彼の周囲にあった文学が、特に彫虫の技を想わせるものであったからである。大震災後、多くの作家が大衆小説を書くに至ったことの原因の深いところには、大正的文学の狭い純粋さに自縛されている自己を解放したという欲求が潜んでいたのかも知れない。短編小説からの離脱、長編小説による「文学の社会化」が先ず通俗的舞台のうえに実現した、といえないこともないと思う。大正文学は、日本の芸術伝統のなかにあるリゴリズムを極度に推し進めたものであったからである。
芥川龍之介の仕事がすべてこうした文学的雰囲気のなかで営まれた、ということを抜きにして彼の思想を論じることは、多くの誤解をまぬかれないだろう。