「雨上がり、花屋で」
透明な細い花瓶に活けられた黄色のラナンキュラスは、大きな薄い花を広げ、リビングのテーブルの真ん中で白い照明を浴びている。暖房の風を受け、体調を崩す予兆のように身体を震わせる。微かに申しわけなさを覚えているのか頭を垂れている。
白石沙織はラナンキュラスを見下ろし、溜め息と唸り声が混ざった声を漏らす。仕事用の鞄にしまったままのスマートフォンを取り出す。チェアに腰掛けて、いくつかの操作を繰り返す。一人の連絡先を前にして、指が止める。メールを送ったり、電話をかけることを、沙織はまだ許されているのだろうか。沙織は彼女にとって、前の職場の人間だ。
このラナンキュラスは、本来であれば今年も上司であった水川理恵宅に飾られているはずだった。しかし、三月に退職した彼女への贈り物は宛先不明で沙織の元に届けられた。
沙織が新卒として入社した時から、理恵は上司として仕事のことはもちろん、色々なことを教えてくれた。花を買ったり、仕事終わりに花屋に寄る余裕ぐらい持てた方が良い、というのはその中の教えの一つだ。仕事を覚えることに精一杯で、何とかゴールデンウィークを迎え、次第に環境と自分のズレを覚えるようになり、例年よりも早い梅雨が訪れたことで気持ちを立て直すのが難しかった時、教えられた。
それから度々、近所の花屋に立ち寄るようになった。紫陽花に始まり、トルコキキョウ、向日葵、ダリア、カーネーション、ガーベラ……多くの花がテーブルに飾られると、自分の中で一つ、茎のような芯が出来上がった感覚を覚えた。営業として働く中で案件を獲得できた時などは、嬉しくなり、理恵の家にメッセージと共に花を送ることもあった。
出勤した朝に、届いたわ、という言葉と共に笑顔を向けられることは、沙織にとっては今でも大切にしまわれている思い出の一つだ。
だから、理恵が退職しても、花は当然届くだろうと思っていた。沙織は理恵の連絡先から画面を切り替え、同期や同僚に連絡を入れる。
退職してからの水川マネージャーのことを知っているか、と。知らないという返事やスタンプが続く。あれほど親身になってくれた理恵が退職を機に連絡が取れなくなるのだろうか。沙織のように人と一定の距離を保つことを良しとする女性でもなかった。沙織の脳裏に、もしかすれば理恵も無理をしていたのではないだろうか、という嫌な予感がよぎる。退職を機に、人間関係をリセットし、旦那と共に頑張っていこうとしているのだろう。
理恵がどう思っているのかということは、沙織の憶測を出ない話であり、確認はすぐできる。沙織は意を決したように息を吐く。昔に散々味わった、新規の営業先に連絡を入れる苦しさに襲われそうになる。
耳に当てているスマートフォンが、数度のコールを繰り返す。
「あれ、白石?」
聞き慣れた、女性としては低いハスキーボイスは、沙織の突然の連絡に少しの驚きと戸惑いで揺れていた。出られると思っていなかった沙織も沙織で驚き、平常心を装って応じる。
「お久し振りです、水川さん。急にご連絡なんて済みません」
「え、うん。久し振り。どうしたの急に?」
「一つだけ確認したいことがあり、ご連絡しました」
「引き継ぎにミスでもあったのかしら? 白石マネージャー?」
「水川さんにそう呼ばれるの、何かむず痒いですね」
「そう?」
「そうですよ」
「それで一体どうしたの?」
「お花をお贈りしようと思ったら、宛先不明で返ってきまして……」
「あ、そうなの。わざわざありがとう。引っ越したの」
沙織の中で、一つまた一つとピースが埋まり、理恵が退職してからの生活が浮かび上がる。
「お贈りしても大丈夫そうです?」
「何か良いことでもあったの?」
沙織の視線が、目の前のラナンキュラスに移る。
「あったわけではないんですけれど、そういう時期でしたので」
理恵の言葉が途切れて、どこかに視線を投げている間が生まれた。
「……もしかして、ラナンキュラス?」
「え、あ、はい、そうです」
「もうそんな時期なのね」
「……お贈りしても大丈夫そうです?」
「え、うん、大丈夫」
「ありがとうございます。訊きたかったことはそれだけです。夜分遅くに失礼いたしました」
「良いのよ全然」
理恵にそう言った沙織だったが、職場を退職した人に花を贈る余裕は、瞬く間になくなった。理恵と同じように営業部のマネージャーに昇進したことで確認事項が増え、出席する会議が多くなり、今自分がどういう仕事にどれくらい携わっているのか、と把握するのが曖昧になる時すらある。
気づけば、例年より早い梅雨入りを迎えた。そんな折、理恵から一通の連絡が入った。金曜日の夜のことである。食事でもどうか、と。短い連絡に、沙織も短く返事をしたことは覚えている。行きます、と。
理恵の予約した店は、駅前のビルに入っている居酒屋だった。店員の威勢の良い挨拶に迎えられ、予約している旨を伝えると、半個室のテーブル席に通された。
仕切り越のように設置されているスライド式の扉から、膝下丈のネイビーのスカートスーツとベージュのパンプスがちらりと見えた。
「お久し振りです」
席に座るのは、昔何度も見た横顔だった。仕事の忙しさや梅雨入りの蒸し暑さも感じさせない涼しげな白さ。いつも丁寧にセットされた丸みを帯びた黒いショートカット。
「久し振り。……お疲れね」
沙織を見上げる張りのある瞳は、自分より年上だということを疑いたくなる若さを感じる。理恵は薄らと口元に笑みを引っ掛け、空いている前の席に座るように促す。
「ビールで良い?」
「ビールが良いです」
すぐに届いたビールと枝豆を口にして、沙織は真っ先に謝った。
「お花、贈れなくて済みません。まだ四月ぐらいだと思ってて……」
理恵は沙織の不安を吹き飛ばすように笑う。
「私もマネージャー初年度はそんな感じだったから大丈夫よ。いずれ慣れるから」
「そういうもんなんですかねぇ」
沙織が理恵と出会った時、彼女はもう既にマネージャーとしての経験を一年積んでいた。そこから一度の昇進もなく、マネージャーのまま退職した。説得力はあるが、自分が理恵のように上手く立ち回れる未来は全然想像できない。
「そうと思わないと難しくない?」
「まぁ、そうなんですけれど……。水川さんはもっと出世すると思ってました」
「私が?」
「営業部のマネージャーじゃなくて、部長とか課長になるんだろうなってちょっと思ってました」
「私が出世すると、多分私が社内の女性達の基準になっちゃうじゃない? それはちょっと気が重いし、現場で動いている方が楽しいしね」
「え、そうなんですか?」
「そうよ。何件か私が担当しているのあったでしょ?」
「サブで動いているんだろうなぁって思ってました」
「肩書きの都合上、色々と裏で動かざるを得ないけれど、やっぱりちゃんとお客様とお話できた方がワクワクするじゃない?」
「え、じゃ今も現場なんですか?」
理恵はビールのジョッキグラスを空にして、別のお酒を頼もうとメニューに目を通している。何か食べる? と訊かれて、サラダや串カツの盛り合わせを注文する。沙織もビールのジョッキグラスを空にして、おかわりを頼む。
焼酎の水割りが理恵の方に置かれ、
「今は」
と口にする。その調子が今までのどんな言葉よりも躊躇いを感じさせ、沙織は口元に持って行ったジョッキグラスをゆっくりとテーブルに戻した。
「仕事を辞めてるの」
「あ、そうなんですね」
「旦那とも別れたしね」
「そうなんですか! え、あ、何で……理由聞いても大丈夫です?」
「仕事に染まりきって、家庭での振る舞い方ができなかった。ちょっとは、頑張ったんだけどね」
慰めるように揺れる頬に、沙織はどういう言葉をかければいいのか分からなかった。沙織が理恵の旦那と出会ったのは結婚式の一度きりで、何年も前のことだ。それから二人の間に何があったのかなど何も知らない。
「あの水川さん」
それでも、そういうふうに声をかけられたのは、理恵の元で働いていた過去のお陰である。
「何?」
沙織を見る瞳は、まだどこか揺れているように見えた。
「それ飲み終えたら、お会計をして、一緒にお買い物でもしませんか?」
「また急ね」
「あ、この後何か予定でもありましたか?」
「全然。良いわよ、行きましょう。何を買いに行く予定なの?」
「お花です。駅前のフラワーショップでしたら、まだ開いていると思います」
理恵の視線が手首に巻いている腕時計へと落ちる。
「……まだ二時間は営業してるから、そんなに焦らなくても大丈夫よ」
「結構遅くまで開いてるんですね」
「そうね。白石は買いたい物、決まってるの?」
「まだ決まってません」
「胸を張って言うことじゃないと思うわ」
「お店に行って、店員さんと相談することが多いです」
二時間は営業していると教えてくれた理恵が手早く届いた料理に箸をつけ始めたので、沙織も流れるように食べ始めた。一杯飲んだらという約束は、お酒の勢いで二杯目を飲んだらに変わり、居酒屋を出る頃にはもう三十分程度しか残されていなかった。雨はもう東の方へ流れたらしく、夜空の下では通りが濡れ、所々に水溜りができているだけだった。
沙織の後ろから理恵がパンプスの音を響かせ、ついてくる。
「そんなに急がなくても大丈夫よ」
沙織は自分が普段より早い調子で歩いていることに気づき、理恵の隣で合わせるように歩く。
「本当ですか?」
「さっき連絡入れたから。ぎりぎりになるかもしれないけれど、二人行きますって」
「そういうの通じるお店じゃなくないですか? お花屋さんって」
「できるところもあるのよ」
理恵の言葉通り、駅前の一角で営業している小さな花屋は、まだ明かりが点いている。看板も出ていた。二人の足が店内に向けられると、いらっしゃいませ、とすぐに声をかけられた。沙織は訊く。
「お花を一輪、欲しいんですけど」
「ご希望の色や大きさなど、ございますか?」
「水川さん、何が良いとかって希望あります? 好きなのとか、ありますか?」
「やっぱり、この時期は紫陽花じゃない? あ、紫じゃなくて、水色のやつね」
「それを一つずつください」
「かしこまりました」
一輪ずつ紫陽花が包まれる。湿気に弱いらしく、夜風に触れないようにと丁寧に袋に入れられる。透明な袋の中で、いくつもの水色の薄い花弁が集まり、大きな花のように見える紫陽花が、沙織と理恵の手を塞ぐ。
「久し振りだわ、花を見に行ったの」
「良かったです、水川さんとこうやって来れて」
「……そうね」
〈了〉
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