※本作は「固執」に登場する人物の物語となっております。
事前に一読されると、一層楽しめると思われます。
「過ち」
金曜日の夜の喧騒は終電と共に遠い所へと運び去られた。日付が土曜日に変わり、アルバイトと他の従業員は帰り、店長であるきみが残っている深夜三時のバーはひっそりとしている。小さくかけ続けているジャズの音色すら大きく聞こえるように思われる。きみは少し音量を小さくしても良いのかもしれないとグラスを洗いながら考える。
「林、ちょっと」
カウンターの向こう、窓際の遮光カーテンの側から、少し呂律の回っていない男の声がかかる。
きみは武藤の前へと歩む途中で、カウンターの中に置いているオーダーを横目で確認した。日付が変わる頃、終電で帰るお客さんと入れ違う形でこのバーにやってきて、数時間経過している。ハイボールを飲むペースは普段と変わらないが、もう酔っているのかもしれない。武藤の前に置かれているハイボールはまだ半分程度残っている。
きみはグラスと武藤の顔を見て、訊く。
「チェイサー?」
薄暗いオレンジの照明に照らされる武藤の顔は、多大にアルコールの影響を受けて赤く見える。ネクタイを外し、緩めた襟元から覗ける肌も赤く見えるのはきっとオレンジ色の照明のせいだろう。
武藤は首を横に振ったが、きみは武藤があまりお酒に強くないこと、二日酔いになりやすいことを知っているので、続けて言う。
「まぁでも飲んでおいた方が良い」
「それじゃ、頼む」
チェイサーを武藤の前へと持って行き、勢い良く飲んだのを確認してから、きみは問う。
「それで、どうした?」
「相談したいことがある」
バーテンダーとして働いていると、そういうふうに切り出されることは度々ある。お酒を作って提供する以外の主たる仕事といえば、お客さんのお話を聞くというものだろうときみは思っている。ただ武藤から、そういうふうに切り出されることは今までなかったので、きみは驚きながらも他のお客さんを相手にしている時と同じように言う。
「俺でよければ聞くけど、どうした?」
きみは、武藤の言葉の一つも聞き逃さないように音楽をスイッチを切った。
「深山さんって覚えてる?」
人の顔を覚えることが得意なきみだが、名前を覚えるまでは難しく、武藤の言った人がどういう人なのか全然分からない。男性なのか女性なのかもピンと来ない。覚えているかどうかという確認から察するに、きみも武藤も会ったことのある人らしい。きみがお店に立っていて、武藤も来ている日を思い返してみるが、一昨日に始まり、先週の週末、先週の中頃、先々週の週末……週に三度は顔を合わせている。その中で武藤以外のお客さんの相手をしていることもあるので、きみは全く全然深山さんという人が分からなかった。
きみの表情に困惑の色がありありと出ていたのを見た武藤は微笑を浮かべて、カウンターに視線を流す。真ん中ぐらいを指で指して、ぐるぐると円を描く。
「あそこらへんで飲んでた、スーツの女の人」
きみはそう言われ、その席の一人の女性が座ったことを思い出す。背の高い、ボブカットの似合うスーツ姿の女性。国産のウイスキーをロックに飲むのが似合う、力強さを至るところから感じる人だった。薄明るい店内が、ぱっと明るくなるように感じさせる人。お酒が入ると笑い上戸になる人で、その笑い声が姿に似合わず優しく、柔らかく、綺麗だった。
きみは続けて、古い記憶の中へと誘われていく。撫子の笑い声を聞いたのは、その時ではないと思い出したから。何年も前のことなのにに拘らず、思い出せたのは、きっと撫子の笑い声が今も昔も変わっていないためだろう。
きみがまだアルバイトとしてこのバーで働いている時に、大学生だった武藤は時々来ていた。その時に、深山撫子も来た。今のように力強さを全身から感じさせることはなく、短いポニーテールが似合う大学生だった。活発で行動的で大胆、そういう言葉が似合う大学生。ただお酒を飲むと笑い上戸になるのはその時から変わらなくて、優しく柔らかに笑う声が、バーに響いたことは何度もある。
「……あー、あの人か。懐かしい」
現実へと帰ってきたきみの前には、社会の荒波に揉まれて線が細くなった、仏頂面の武藤がいる。ただ武藤の額や頬も、きみと同じように昔を懐かしんでいたのか、柔らかいものが浮かんでいる。武藤がハイボールの入ったグラスを手に持ち、くるくると回す。からん、とグラスの内側で氷がぶつかる。
「林はさ、運命ってもの信じたりする?」
武藤の言葉に甘い響きが混じった。
「運命、ねぇ……」
きみは間も持たせるように、武藤の言葉を繰り返す。武藤もきみの言葉を繰り返す。
「そう、運命」
「んー、運命かぁ……」
きみは壁に片方の肩を寄り掛からせ、腕を組んで呟く。
きみはそういうものを信じているかどうかと問われると、答えに窮するタイプの人間である。というのも、こういう時に求められるのは、きみ自身が運命を信じているかどうかというのではなく、話し相手がどちらのタイプかということであり、つまり結局のところ、話を展開させたい枕詞である。武藤は今、運命について話を展開させたいと思っている。より具体的に考えることが許されるのならば、武藤は、深山撫子との運命について何か話そうとしている。そして、きみに何かを相談しようと思っている。
きみは武藤に限らず、こういう相談事はよく聞いている。武藤の相談内容が恋愛相談だということが分かった。運命というものに対する自らの考えを、短く伝える。
「俺は信じるよ、運命」
武藤はハイボールを飲む手を止めた。思いも寄らぬ言葉を受けたらしかった。きみは武藤のその反応が意外で、壁から離れて、笑みを浮かべる。
「……意外」
「そうか?」
「現実主義っぽい感じするから」
きみはそういうことを考えるのが得意ではなかったし、自分が現実主義者か理想主義者かどちらに見られても困ることはないと思っているので、いつも使っている口上を口にする。バーの空気を柔らかく掻き乱す。
「普通の社会人が向いてなかっただけだよ」
「経験してないからそう思っているだけだろう?」
武藤の発言を、きみは揶揄うように言う。
「はい出た、できる奴特有の根性論」
「根性論って……一般論だと思う」
「俺は少数派の味方なの。根性もないし、勉強もできないし。お酒を作ってお客さんのお話を聞くだけで精一杯」
「立派だよ」
「そう、立派。職業に貴賤なし。それで、深山さんとの仲を上手くやったらいいわけ?」
話を半ば強引に戻すと、武藤は目に見えて慌てて、狼狽える。声を少し張り上げ、きみを見る目が鋭くなる。きみは武藤から厳しい目を向けられても、平然としていて、尋ね返す。
「は? いや何で、そうなる?」
「え? いや逆に何で、そうならないと思った?」
武藤はきみの目を見て、確認を取る。
「分かりやすい?」
「話の流れ的にそれ以外、考えられない」
きみが笑いながら答えるが、武藤は全然納得していないように重ねて確認する。
「……そうか?」
「そうだよ」
「そっか」
沈黙が、バーに満ちる。きみは改めて、もう一度、武藤に確認をしたかった。撫子と武藤の関係を良好にするために、色々と動くべきなのかと問いかけたかった。が、そういうふうに背中を押すことではないように思えた。きみにどう動いてほしいのか決めるのは、武藤であり、きみじゃない。
武藤は、悩んでいる。きみが武藤のことを思って、彼の先を歩み、進んだ方が良い道を指し示し、導くような真似をすることはできる。事を手っ取り早く終わらせるのならば、その方が良いだろう。けれども、今回の場合は、そういうふうにきみの意思で事を進めるわけにはいかない。きみと武藤、きみと撫子は、バーテンダーとお客さんというだけの関係。きみが、きみだけの意思で、動いて、そういう関係から発展してしまうのは、いけない。きみが撫子に好意を寄せているのならばまだしも。
長い沈黙を、武藤の静かな落ち着いた声が破る。
「さっき運命って言ったけどさ。深山さん、大学の後輩なんだよ。もう会えないと思っていた」
きみは記憶の奥深くに眠っているいくつもの夜を思い返す。朧げな夜が連続で駆け巡っていく中に、武藤が珍しく高い声を上げた夜があった。二度あった。一度目は、きみがまだアルバイトとしてここで働いている時で、二度目はきみが今のように店長として働いている時だ。どちらの記憶にも武藤の側には、撫子が座っている。二人して盛り上がって話していることがあった。そこで、運命という言葉が出てきたような気がする。
きみは少しだけ、武藤が運命という言葉を口にした気持ちが分かったように思えた。もし自分が武藤と同じ立場だったのであれば、きっと自分もそういう言葉を口にしていたと思う。再会という言葉を口にしても良い時に、そういう言葉を選ばなかった理由が、少しだけ分かるような気がした。
真夜中という時間は、人を感傷的にする。そういう時間帯に発せられるものが、脆く、柔らかく、傷つきやすく、壊れやすく、丁寧に扱わないといけないことを、きみはよく知っている。人の本性が曝け出される時間帯、と言ってもいいのかもしれない。他の人の何気ない一言で、形を失ったり、姿形を変えることがある。美味しいお酒を作ることだけがバーテンダーの仕事ではないということをアルバイトとして働いている時分に、口酸っぱく言われたことを思い出したのはいくつもの夜を振り返っていたからだろう。
「この機会を逃したら、次はもうないと思う」
そんなことはない、と言いそうになった唇を閉ざす。
大学で出会い、社会に出てからも出会ったのであれば、また出会える時が来ると思っている。が、こういうある種の楽観的な考えは、きみがバーテンダーとして働いているからこそ考えられることだった。普通の社会人のように異動も転勤もない、店を開けていれば誰かが来るという状況。片方が待ち続けられるからこそ、再び出会える可能性について自然と考えてしまう。武藤と撫子はそうじゃない。この機会を逃してしまえば、この先で再会することは難しくなってしまう。社会人として、そういうふうな生活を続ける。
「だから、協力してほしい」
武藤に頼まれ、きみはすぐに具体的なことを訊く。
「武藤があなたのことが好きですって伝えればいい?」
「待て待て、何でそうなる?」
「それ以外、何を伝えるんだよ?」
「お前は何事も急だよ」
「いや、だって、事を動かしてほしいってことだろ?」
「そうだけど、こういうのはちゃんと段階を踏んで……」
「悠長過ぎない?」
「良いんだよ。深山さんにも色々事情があるだろう」
武藤の言葉は、自分にそう言い聞かせているように感じた。
きみはバーの薄暗さが人の視線や表情を朧げに見せることを知っていたので、蔑むように武藤を見たところで、きみの感情は全然武藤に明らかにならない。声音さえ普通の調子であれば。
「武藤」
「どうした?」
臆病者という言葉を続きそうになり、飲み込むように自分の分のチェイサーを用意する。飲み干してから、別の言葉を武藤にかける。
「それで、俺は何をしたら良い?」
「深山さんに俺のことを上手く紹介してほしい」
紹介も何も……という悩ましい思いは、極々短い言葉となって、武藤に伝えられる。
「は? 今更?」
「今更じゃないだろう?」
「え、いや、今更だろ。大学の時にやってるだろ?」
「学科が違ったから、あんまり知らないんだよ」
「え、でも、再会したし連絡先とか交換してるだろ?」
武藤からの返事はない。きみは思わず、
「え?」
と、声を上げた。
武藤と撫子がここで度々顔を合わせていることを、きみはよく知っている。同じ大学の出ということもあってか、昔話をしたり、就職してからのことを話していることを、きみも度々耳にしている。だから当然、連絡先を交換して、きみの知らないところで事は良い方向に進展していると思っていた。友達以上の関係、武藤の年齢を考えればもっと先のことまでを想定し、きみが上手く仲を取り持つのだと思っていた。
が、現実の関係は、きみの思うように進んでいなかった。
もしかして、と前提条件を疑おうと思った。きみがそう思っているだけで、武藤が全然そんな気がないことは有り得そうに思えて、最も大事な確認をする。
「深山さんのこと、好きじゃない?」
慎重に事を運びたいと思っている武藤が、撫子のことをそう思っていないわけがないときみは分かっているが、ちゃんと言葉にして武藤に自覚させる必要があると思った。
「良い人だと思う」
便利な言葉に逃げる武藤に、きみはすぐさま同じ言葉で訊く。
「好きじゃない?」
「嫌われたくないんだよ」
「好きだから?」
肌に刺さるような沈黙が、一瞬だけバーに満ちた。東の空が明るくなる頃に遮光カーテンを開けると、陽の光の眩しさが目に染みることがある。あの時に味わう目の奥の痛みを、きみは不意に思い出した。
沈黙を、武藤の意を決した声が破る。
「そう、好きだから」
武藤の言葉を聞き、きみは安心して笑った。
「やれることはやるけど、お前もちゃんとやれよ」
連絡を入れることが多くなるから、きみは武藤と連絡先を交換した。
武藤は新しいお酒を注文して、ゆっくりと飲む。
会計の時、きみは武藤に訊いた。
「深山さんに言わない方が良い?」
「やめてほしい」
「分かった。まぁでも、言った方が早いと思うぜ?」
「早いとか遅いとかそういうのじゃないんだよ」
※
「あれ、武藤さんは?」
バーの重たいドアが開いたかと思えば、さらっとした涼しげな顔が現れ、ぱっちりとした大きな目が店内を見渡す。薄暗い店内が、一瞬ぱっと明るくなったように見えた。ベージュのジャケットを羽織る撫子は、その名前にふさわしい凛としたものがある。
きみは他の方のお酒を用意しながら、いつも武藤が座っている席を一瞥して答える。
「来てませんよ」
撫子は眉に力を込めたかと思えば、すぐに疑問を口にし、空いている所に座る。
「金曜日なのに……残業?」
「さぁ、どうなんでしょう? 深山さんは何か知りません?」
「私より店長の方が知ってそうだけど?」
撫子はきみを見たかと思えば、カウンターに背後に並んでいるお酒へと視線を流し、白州のハイボールを頼む。
武藤がバーに来なくなった。連絡もなければ、きみも撫子のように心配するのだが、これは武藤の作戦の一面を持っている。武藤がいてしまえば、きみが上手く事を運べない可能性があるので、来ないのだ。そうじゃないだろう、ときみは思っているが、立場上そう強く言うことはできず、武藤が来れるタイミングで来店することを信じることにした。
作ったお酒を撫子の前に置いて、きみは武藤の言っていた建前を困ったように笑って伝える。
「まぁ健診が近いので」
同情するような、あぁ……という声が、撫子の口から漏れた。それから、その同情を吹き飛ばすようとくっきりと笑う。
「飲み過ぎだしね、学生の頃のツケを払う時が来たってことかな」
きみは苦笑を浮かべることしかできない。
武藤から、頼み事をされていたが、まずは何よりもバーテンダーとしての仕事を全うする。撫子だけではなく、他のお客さん含めて過ごしやすい、お酒が美味しく飲める環境を作り上げる。適度に話を振り、時に話を広げ、聞き耳を立てる他のお客さんを巻き込み、橋渡しを行う。注文が通れば、指先まで神経を漲らせ、細心の注意を払って一杯のお酒を作る。心地良い時間を過ぎ去っていくことを、意識する。
お客さんは終電の時間が近づくと、ぽつぽつと席を立つ。撫子も普段ならば、その人達と共に帰路に着くのだけれど、今夜はまだカウンターに座っている。他の従業員やアルバイトの者が退勤する時に、声をかけ確認すると、撫子は、まだ飲むから、と明るい声で笑った。
バーには、撫子ときみだけが残った。きみはどういうふうに話を切り出すか悩んだ。武藤のことを話題にした方が良いのかもしれないが、そういう空気になりそうにない。ボリュームの絞ったジャズを流し続け、静かに飲む撫子の側にいる。少しずつ減っていくカクテルのグラスを気にかけることも忘れない。
撫子は半分近く減ったグラスを置き、アルコールの影響を受けた赤い目をきみに向ける。口角を上げて、真夜中に似合わない張りのある高い声で、きみに訊く。
「店長は、運命って信じる?」
撫子の言葉には、武藤の時のような甘い響きはない。
きみは武藤に問われた夜のことを思い出した。きみは、すぐに運命を信じていると言うことはできたが、口を閉ざして撫子の目を見て、彼女の言葉の真意を確かめる。
「今日も会えると思ったんだけどね」
撫子はきみの沈黙を、突然のことを問われて驚いていると思ったらしく、慌てて言い直す。アルコールの影響を受けていない彼女の素の性分を思わせる、柔らかな優しい声だった。
前後の繋がりがない発言だったが、きみはそういうことを気に掛ける素振りはみせず、黙って撫子の言葉を聞いていた。
きみは運命というものを信じることもできれば、信じないこともできた。どちらでもいい、というのがきみだ。もしお客さんが運命を信じないという立場であれば、きみはお客さんに合わる。そういう人である。
武藤には運命を信じると言った口で、撫子に運命を信じないということもできる。撫子が運命を信じていないのであれば。
が、撫子の言葉の節々には、運命を信じたいと望むものがある。きみは、武藤にそうした時と同じように、短い言葉で伝える。
「信じてますよ、俺も。そして、武藤も」
撫子の動きが止まったように、きみの目には映った。が、次の間には普段と変わらない様子でグラスを手にしている。ただ、目の奥には収まりきらない動揺が見て取れる。
「……武藤さんも? 本当かな?」
「いつか、そんなことを言ってました」
信じないと言うように撫子は小さく笑う。
「絶対、酔ってて言ってただけだよ、それ」
「お酒を飲んだ時の言動が、その人の本性の可能性もあるのでは?」
「俗説でしょ?」
「運命を信じられるのでしたら……」
皆まで言わないように、きみは声を潜めた。撫子は顔を伏せて、弱々しく苦い笑い声で応じる。
「いや、まぁ、そうだけど……」
事は思ったよりも、容易に進む気配がある。きみは店内を流れるウッドベースの旋律に紛れるように、息を吐く。
武藤も撫子もそういうふうに運命を信じているのならば、どうしてこの二人はまだただの友達のままでいるのだろうか。撫子も武藤と同じように段階を踏んだ方が良いと考えているのかもしれない。もしそうであるのならば、きみにできることはあるのだろうか。二人が満足できる速さで、事を進めれば良いのではないだろうか。
その歩みがずれている場合、どうすればいいのだろうか。きみはそんな歩みの違いを考えてみたが、きみ自身が納得するような答えは出ない。どちらかが気づき、どちらからの歩調に合わせるしかないのではないだろうか。
「後、どれだけ待てば良いんだろう」
独り言なのかもしれなかった。きみが苛立ちを覚えることではないと、きみの心の一部分では分かっていた。二人の心の内を知ってしまうと、腹立たしいものを覚える。特に武藤に。年上の男として、しなければならないことがあるのではないか、という怒りを覚える。
きみは居ても立っても居られない焦ったさを覚え、レジの近くに置いていたスマホを持ってきて、こういう提案をする。
「連絡入れましょうか?」
撫子は腕時計に視線を落とす。
「こんな真夜中に?」
やめておいた方が良いという柔らかな制止が、撫子の声に宿っている。健診が控えたお酒好きの男を呼ぶのはどうなのか、と撫子は考えている。
金曜日は少し前に終わっており、三十分程度土曜日が始まっている。家で飲んでいる可能性は十分に有り得る。あるいは、きみからの連絡を待っているのかもしれない。撫子とどういうことを話し、きみのことをどんなふうに紹介したのかということを。
「多分、来ますよ。モクテルも用意できますので」
「ノンアル飲むと思う?」
二度目の確認に、きみは一言謝ってからスマホを元の場所へと置きに戻った。武藤に短く連絡を入れた。撫子が来店していること、告白を待っていること、撫子も運命を信じる人間であること、武藤も撫子も同じような人間であることを教える。
返事はすぐに来た。
――告白は早くない? 深山さんだったら、自分から告白するでしょ。自分の言いたいことはちゃんと言う人だよ、びしっと。
――連絡はいらない。そんな調子で頼む。
きみは返事を送ることなくカウンターに戻った。
撫子はバーの店内の暗がりに隠れるように座っていた。
「……こういうことは、ちゃんと自分達でやらないといけないから」
撫子自身に言い聞かせているような発言だった。きみはこういうことを頼った武藤を思い描きながら、訊く。
「人に頼れない、と?」
撫子はすぐに、ぱっと否定する。
「あ、いや、違うよ。そういうことじゃない。もう、人に頼るのはやめようって思ってる。私個人の考え」
相談や報告の範囲であれば、人と話しても良いのだが、それ以上となると面倒事になる可能性が高い。今回の場合もそうだ。撫子と武藤が、互いのことを好ましく思っているが、ちゃんと伝えていない。きみだけが知っている。何も言ってこない武藤を諦めて、撫子が別の人を探す可能性は全くないわけではない。例えば……。
きみは余計な方向に進んでいきそうな思考を断ち切るように、撫子の考えに応対する。
「良いと思います」
撫子は、すっと視線を細める。
「理由、知りたくない?」
きみは視線を辺りに泳がせ、言いづらそうに伝える。
「……気にならないと言うと嘘になりますね」
撫子は場の空気を掻き混ぜるように明るい声で短く笑う。
「何それ」
「俺にも立場がありますので」
「店長としての?」
「バーテンダーとお客様ですので。深入りしないようにしてます」
撫子は揶揄うように笑う。
「モテそうだもんね」
「深山さんこそ」
撫子は顔の前で、ひらひらと手を横に振る。
「私は全然だよ。友達から相談されることの方が多いよ」
「俺もそうですよ」
きみがそう言うと、撫子はそっと笑う。何かおかしいことを二人だけの秘密にするような楽しげな笑顔だった。
「似てるね、私達」
「かもしれませんね」
「でもさ、疲れない?」
「それが仕事ですから」
「流石店長。私は無理なんだよねぇ。四六時中、演じるっていうのは難しいわ」
大学生の頃の撫子は、今よりも幼く見えた。年齢という部分ではなく、立ち振る舞いが子供のように感じられたのである。まだ大人になりきれていない、責任もなければ経験も少ない、大学生らしい伸び伸びとした若さに満ちていた。エネルギッシュな年下の女性、という表現が似合う人だった。
社会人として出会った撫子に、そういうものはない。エネルギッシュという部分を感じさせるものはあるが、昔とは別方向になった。頼りになる先輩の社会人という言葉でまとめられる人になった。本人がそうなりたかったのか、撫子の周りが撫子にそういう役割を望んだのかどちらか分からないが、撫子は変わった。
「さっき、店長はお酒は人の本性を云々って言ったけど、私は、戻りたいんだと思う」
「戻りたい?」
「お酒を飲んで、わいわい楽しくなって、昔に……。店長も、ない? そういうの」
「戻りたい、ですか」
「そう、戻れるのなら戻りたいって時」
きみはすぐに思い浮かばず、撫子に訊く。
「少し考えても良いですか?」
「全然良いよ」
きみは普段ならば、ないと答えていた。時は戻ることはなく、やり直すこともできないということを知っている。同じ失敗をしないようにするだけ、と考える。きっと、撫子もそんなことは知っていることだろう。そういうことを知っていても、戻りたい時があるか、と問われている。
きみは戻りたい時があった。戻って、やめておけ、と過去の自分に言いたいことがある。
「……恋愛相談を軽い気持ちで受けるなって言いに戻りたいですね」
「随分と具体的だ」
ははっと笑う撫子の表情に、冷たいものが過る。お酒を飲んで、現実と非現実の境界を楽しんでいる時にふと我に返るあの瞬間。現実へと思考が戻る時。
「でも、戻らない」
「戻れない、ですよ」
そうだね、と撫子は笑った。
「でも、戻れるかもしれないって思える時、あると思う」
撫子は少し仰け反り、バーをぐるりと見渡す。撫子ときみしかいない暗いバーを。遮光カーテンの側の席には、誰の姿もない。
「ここで武藤さんと再会した時、びっくりしたし安心したし嬉しかったんだよねぇ。昔に戻してくれるかもしれないって。社会人としてきびきび働いている自分じゃなくて……期待してないって言ったら、嘘になっちゃう」
でも、と撫子は何度目か分からない否定の接続詞を口にする。
「そういうのはもう、卒業しないといけない。アラサーで、そういうのはもう……。現実を見ないといけない」
さびしい、という言葉が、撫子の口から零れた。
それから、きみの姿を認めた。
大きく潤んだ瞳が、きみを見る。
きみには、武藤との約束がある。武藤と撫子が恋人になるように自分が仲を取り持つという約束がある。
今すぐ武藤に連絡を入れれば、それで終わる。あるいは撫子に、武藤との約束があることを話せば良い。今この場できみにできることは、それくらいだ。
きみは、平然を装いながら言う。
「武藤も、きっとそうですよ」
声が震えたような気がしたが、撫子には聞こえていないようなだった。
「ちゃんと大人になってるんだね、武藤さんは……」
憧れを引きずったさびしさだった。
きみにできることは、それくらいだと思いたかった。しかし、きみは、もう一つできることがあることを知っている。きみと撫子が、バーテンダーとお客さんという関係ではなくなるということ。それは同時に、武藤という常連客の願いを断ち切ることを意味する。武藤の恋が成就させないことを意味する。
武藤はゆっくり確実に、事を進めたい人間なのだろう。石橋を叩いて渡るような慎重さがある。
それで良いのか、ときみは思う。果たしてそれで、撫子は良いと思うのだろうか。撫子はいつまで待てば良いのだろうか。
どちらにも肩入れせず、事が過ぎるのを待つ。きみは、多くのことをお客さんの調子に合わせてきた。運命を信じるのか信じないのか、戻りたい時があるのかどうか……。
今は、きみ自身で決めないといけない。
きみは武藤に謝りたい気持ちで一杯になった。
武藤にはない、強引さが、きみにはあってしまった。きみは、撫子に自分の気持ちを伝える。そうするのが自然だと思った。そうすれば、撫子のさびしさを和らげられると思った。
「俺だったら、そんなさびしい思い、させませんよ」
撫子は取り繕ったように綺麗に笑った。
「……バーテンダーとして深入りしないんじゃなかった?」
「もう十分、深入りしてしまっているんです。俺は」
それから、もし気が進めば、近いうちに長い休みを取るので、陽の高い内に会いませんか、と訊いた。撫子は無言で恥ずかしそうに頷いた。〈了〉
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