※本記事は、ChatGPTとの対話をもとに構成・加筆・再編集したものです。
文章構成や分析の整理に生成AIを使用していますが、内容の検討・修正・引用選定・加筆は筆者自身が行っています。
目次
自作小説「五分以内」をショート動画化しようと思った。ショート動画への挑戦は、随筆「入り口を広くしようとしている話」に詳しく書いている。
最近は、生成AIで画像を作り、短い動画にまとめ、SNSへ投稿する人も増えている。
ならば、自分の小説も同じようにできるのではないか。そう考えた。
最初は単純だった。
小説を書いている。
人物描写がある。
服装もある。
眼鏡の描写もある。
仕事もある。
生活感もある。
ならば、生成AIに読ませれば、その描写に沿った画像が出力されるだろうと思った。
まず「雰囲気画像」として出力してみた
最初は、ショート動画に使う背景画像を作るつもりだった。
夜のスーパー。
冷凍食品売り場。
仕事帰りの女性。
味噌汁と白ご飯。
静かな部屋。
そういう場面を並べれば、「五分以内」の雰囲気に近づくのではないかと思った。

最初に出てきた画像は、ぱっと見れば悪くなかった。
夜のスーパーらしき場所がある。
食卓もある。
静かな生活感もある。
ただ、見ているうちに違和感が出てきた。
これは「五分以内」なのか。
それとも、生成AIが考えた「夜の社会人女性の生活」なのか。
かなり後者に近かった。
作品の中にあるのは、単なる夜の生活ではない。
仕事の後にスーパーへ行くこと。
冷凍うどんを選ぶこと。
偶然、同期に会うこと。
その人のカートに入っている食材を見ること。
その食材から、相手の生活を感じること。
画像は、そのあたりをかなり丸めていた。
「夜」
「スーパー」
「食事」
「静かな部屋」
という要素はある。
でも、あゆみが何を見て、どう引っかかったのかまでは出ていない。
作品に寄せようとして、かえってズレた
次に、もう少し作品の場面に寄せようとした。
買い物。
冷凍うどん。
帰宅。
食事。
そうした流れを意識して、もう一度画像を作った。

ここでも、ある程度の雰囲気は出た。
しかし、やはり違う。
「五分以内」は、単に「女性が買い物をして簡単なご飯を食べる話」ではない。
むしろ重要なのは、あゆみが「自分の生活」と「あかりの生活」の違いに気づいていくことだ。
自分は五分以内に食べられるものを選ぶ。
あかりは旬の食材を買う。
自分は待てない。
あかりは煮る時間を生活の中に持っている。
その差が、スーパーの場面や、終盤の食卓に効いてくる。
画像では、その差がかなり見えにくかった。
「生活感」はある。
でも「誰の生活感なのか」が曖昧だった。
精読させれば近づくと思った
そこで、小説本文をもっとちゃんと読ませればよいのではないかと考えた。
作品には、かなり具体的な描写がある。
例えば、主人公の渡辺あゆみには、
少しずれた気がする大きな黒縁眼鏡を掛け直す。
という描写がある。
少なくとも作者としては、
「あゆみ=大きな黒縁眼鏡」
という認識で書いている。
一方、須藤あかりには、
事務員の制服を身につける見慣れたあかり
という描写がある。
会社では事務員制服を着ている。
また、スーパーで会った時のあかりには、
白いパンツと襟元のすっきりとした同色のシャツ
という描写もある。
つまり、描写はある。
ならば、生成AIに精読させれば、そこに近い画像が出るのではないか。
そう考えた。

しかし、出力された画像は、やはりどこか違っていた。
場面の雰囲気はある。
しかし、人物の輪郭がぼやけている。
あゆみでも、あかりでもなく、生成AIが知っている「社会人女性」になっていた。
作品固有の人物ではなく、ジャンルの平均に近づいていた。
一枚ずつ作ればよいのではないか
次に、一気に複数枚作るのではなく、一枚ずつ作れば精度が上がるのではないかと考えた。
まずは、あゆみの仕事感や出版社勤務の空気を出そうとした。

出てきたのは、夜のオフィスで仕事をしている女性の画像だった。
これはこれで雰囲気はある。
ただ、作品の場面として見るとズレている。
「五分以内」の冒頭は、会社ではなく喫茶店だ。
十四時という遅いランチタイム。
まだランチを続けている喫茶店。
その場でメニューを見て、メールを確認し、日替わり定食を待っている。
そこには仕事の気配がある。
でも、舞台はオフィスではない。
この画像は、「出版社勤務の編集者」という情報から、生成AIが「夜のオフィス」を補完したのだと思う。
しかし、それは作品の実際の場面とは違う。
ここで分かった。
生成AIは、描写そのものよりも、タグから連想される典型的な場面を出しやすい。
「出版社」
「編集者」
「忙しい」
「仕事」
そうなると、夜のオフィスが出る。
けれど「五分以内」では、仕事の気配は喫茶店やスーパーや休憩室や家の中にまで滲んでいる。
そこが大事だった。
アニメ調にすると、別の問題が出た
次に、アニメ調でも試してみた。

これは一目で分かりやすかった。
二人の女性。
スーパー。
食卓。
会話。
百合っぽい空気。
ただ、これはかなり「百合アニメ」になっていた。
「五分以内」の二人は、最初から親密ではない。
同期ではある。
部署は違う。
会社で会う時は、残業や勤怠や領収書の話が多い。
一度会えば十分で、二度も三度も会いたくない相手でもある。
その距離感がある。
スーパーで偶然会う。
「……意外」
「こっちの台詞なんだけど?」
その空気は、仲良し二人組の会話ではない。
しかし、アニメ調の画像では、その距離がかなり縮められていた。
生成AIは「百合」と聞くと、すぐに親密さを足してしまう。
作品にある微妙な距離。
ぎこちなさ。
同期同士の軽い刺々しさ。
生活圏で偶然会ってしまった時の気まずさ。
そういうものが落ちていた。
「忠実に再現」と言っても、描写が守られない
次に、作品の描写を忠実に再現した二人の画像を作ろうとした。
結果として出てきたのが、職場の休憩室のような場所にいる二人の画像だった。

この画像で、かなり大きな違和感が出た。
まず、あゆみの大きな黒縁眼鏡が弱い。
原文では、
少しずれた気がする大きな黒縁眼鏡を掛け直す。
と書いている。
にもかかわらず、画像では眼鏡の印象が弱かった。
さらに、あかりがエプロンを着ていた。
職場の休憩室らしき場所なのに、なぜエプロンなのか。
原文には、職場でエプロンを着ている描写はない。
むしろ、あかりは、
事務員の制服を身につける見慣れたあかり
と書かれている。
職場では事務員制服を着ている。
それなのに、生成AIはエプロンを着せた。
おそらく、
社会人百合。
料理。
手料理。
家庭的な女性。
こうした要素がつながって、
「エプロン」
になったのだと思う。
しかし、それは作品に書かれているあかりではない。
あかりは「家庭的ヒロイン」ではない。
普通に生活している人だ。
自炊をする。
旬の食材を買う。
弟妹が来ることもある。
人を家に招くことができる。
それは、特別な家庭性ではなく、生活の継続性だ。
生成AIは、その差をかなり雑にまとめてしまった。
設定を箇条書きにすれば改善するのではないか
そこで、本文をそのまま読ませるのではなく、人物設定を箇条書きにしてから画像化すればよいのではないかと考えた。
例えば、
渡辺あゆみ
・出版社勤務の編集者
・大きな黒縁眼鏡
・仕事の速度で生活している
・外食やすぐ食べられるものに慣れている
・観察してから反応する
須藤あかり
・事務員
・職場では事務員制服
・スーパーでは白パンツと白シャツ
・生活の中に自炊がある
・柔らかいが、軽く煽る会話もする
このように整理すれば、少しは近づくのではないか。
そう思った。

結果として出てきた画像は、かなり綺麗だった。
二人の女性が食卓にいる。
食事がある。
部屋がある。
静かな空気もある。
ただ、また違った。
人物だけが妙にくっきりしている。
背景はぼんやりしている。
光が柔らかすぎる。
部屋が整いすぎている。
二人の距離が親密すぎる。
いわゆる「生成AIっぽい」画像になっていた。
人物だけがぱきっとして、背景は被写界深度でぼかされている。
光は映画のように整えられている。
現実の生活光ではなく、雰囲気のための照明になっている。
けれど「五分以内」に必要なのは、そういう“映える光”ではなかった。
必要なのは、もっと普通の生活の光だった。
スーパーの白い光。
会社の休憩室の白さ。
家の照明。
湯気。
味噌汁。
白ご飯。
それは、劇的な光ではない。
小説の描写は、画像化すると別物になる
今回やってみて分かったのは、小説の描写は、そのまま画像に置き換えられるわけではないということだった。
小説では、一文で成立するものがある。
例えば、
私は料理を作ることをコストパフォーマンスに繋げて考えているのだろう。
という文章。
小説なら、この一文で済む。
けれど映像や画像では、この感覚を一枚で出すのはかなり難しい。
・普段どんなものを食べているのか
・家に何があるのか
・どの時間に帰ってくるのか
・食事をどう考えているのか
・料理にどれくらい距離があるのか
・あかりの生活をどう見ているのか
そうしたものへ分解しないといけない。
小説の「思考」は、映像では「演出」へ変換される。
だから途中で、
「そこまでやるなら、自分でネームを切るだろ」
という感覚になった。
生成AIが作業を軽くすると思っていた。
実際には、
・描写を整理し
・設定を箇条書きにし
・AIの誤読を修正し
・ジャンル補完を止め
・色味を調整し
・距離感を監修する
という、新しい作業が発生した。
これは、もはや単なる画像生成ではない。
別媒体への翻訳だった。
生成AIは「余白」を埋めようとする
さらに気づいたことがある。
生成AIは、余白を余白として残すのが苦手なのかもしれない。
「五分以内」には、言い切らない部分が多い。
あゆみとあかりの関係も、恋愛として明確に説明されているわけではない。
感情も、強く言葉にされていない。
手料理の場面も、
「救われた」
「恋に落ちた」
「人生が変わった」
とは書いていない。
ただ、
外食にはない優しさが、あかりの作るものにあった。
と書く。
その静けさが大事だった。
しかし生成AIは、そこへ分かりやすさを足す。
・親密さ
・柔らかい光
・優しい笑顔
・温かい食卓
・家庭的な雰囲気
そういうものを足してくる。
つまり、人間側が削った余白を、生成AIは「不足」と判断して埋める。
これはデザインにも似ていると思った。
人間の作り手が、意図して余白を置く。
しかし、生成AIはそこを空いている場所として処理する。
そして、装飾や光や要素を足す。
小説でも同じことが起きる。
静かな観察。
微妙な距離。
言い切らない感情。
会話の間。
そうした余白が、分かりやすい関係性へ変換される。
自分の文章は、画像生成AIと相性が悪いのかもしれない
自分の文章は、生成AIによる画像化と相性があまり良くないのかもしれない。
理由は単純で、視覚情報だけで成立していないからだ。
生成AIと相性の良い文章は、おそらく、
・赤髪
・軍服
・剣
・夕焼け
・ネオン街
のように、一枚絵へ変換しやすい記号が強い。
何を描けば良いのかが明確。
一方、「五分以内」は、
・生活速度
・距離感
・観察
・会話
・空気
・間
で成立している。
しかも、それを説明としてではなく、「観察」として書いている。
例えば、
あかりが手にしているカートの中には、今が旬ですと書かれたポップの下に置いてあった筍や春キャベツがある。
という文章。
これは単なる買い物描写ではない。
・春
・スーパー
・旬
・自炊習慣
・生活能力
・暮らし方
・あゆみとの時間感覚の差
まで含んでいる。
ただし、文章自体はシンプルだ。
読者はまず、
「筍と春キャベツがある」
として読む。
その後で、
「あ、春なのか」
「あかりはこういうものを買う人なのか」
「あゆみとは生活の速度が違うのか」
と情報が立ち上がる。
つまり、情報を説明として置いていない。
観察の中へ埋めている。
ここが、生成AIには伝わりにくかった。
人間の読解も、生成AIと少し似ていた
面白かったのは、この問題が、人間の読解にも少し似ていたことだ。
AIとのやり取りを続けているうちに、こちらも気づいた。
AIもまた、小説を「読んで」いた。
ただし、その読み方は、人間とかなり似ている。
テキストそのものを厳密に追うというより、自分が既に知っているジャンルや経験へ引き寄せながら読んでいる。
例えば「五分以内」には、
仕事だから、待つことはできる。仕事だから。
という感覚や、
私は料理を作ることをコストパフォーマンスに繋げて考えているのだろう。
という思考が書かれている。
このあたりから、
「仕事疲れの話」
として読まれた。
しかし、作者としては、そこまで単純に疲弊や救済の物語として書いていたわけではない。
あゆみは仕事を嫌っているわけではない。
仕事に潰されているだけの人物でもない。
むしろ、自分の仕事に誇りがある。
自分の速度で生きている。
ただ、その速度の中では、料理や待つ時間が遠くなっている。
そこへ、あかりの生活が入ってくる。
だからこれは、仕事疲れの話というより、
「自分とは違う生活速度を持つ人に触れる話」
に近い。
人間もまた、
「書かれているもの」
そのものより、
「既に知っている物語」
へ寄せて読んでいる。
生成AIで画像を作ろうとしていたはずが、途中から、
「人間はどう小説を読んでいるのか」
という話になっていった。
結局、文字だけのショート動画に寄せることにした
最終的に、ショート動画は、
「背景色一色+文字だけ」
に寄せようと思った。
その方が、自分の小説に近い気がしたからだ。
下手に画像を付けると、作品の解釈が固定される。
あゆみの顔。
あかりの顔。
部屋の雰囲気。
食卓の温度。
二人の距離。
それらが、画像によって決まってしまう。
しかし「五分以内」は、本来、読者が文章から立ち上げる作品だ。
ならば、ショート動画でも文章を読ませた方がいい。
背景色一色。
黒字のテキスト。
静かなBGM。
短い会話。
余白。
その方が、作品の呼吸に近い。
小説を別媒体へ変換するということ
今回やってみて、一番大きかったのは、
「小説を別媒体へ変換すること」
の難しさだった。
小説は、言葉で成立している。
とくに「五分以内」のような作品は、
・何を見るか
・何を見ないか
・どこで反応するか
・何を言い切らないか
・どの感覚を残すか
で成立している。
それを画像にすると、どうしても別の文法が入る。
映像なら、視線が必要になる。
漫画なら、コマ割りが必要になる。
アニメなら、演技が必要になる。
画像なら、一枚で見える記号が必要になる。
その時、小説の情報は変換される。
変換される以上、失われるものもある。
問題は、何を残し、何を変えるのか。
今回、生成AIで画像を作ろうとしたことで、逆に、自分の小説が何で成立しているのかが見えてきた。
人物の外見ではない。
雰囲気だけでもない。
百合というジャンル記号でもない。
誰が、何を、どう見るのか。
その視線の積み重ねで、作品はできている。
小説は、文章で読むのが一番自然なのかもしれない。
ただ、
「小説を別媒体へ変換する時、何を残し、何を変えるのか」
という問題の面白さも、強く感じた。
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