私達は今でも

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「私達は今でも」


 
 
 こういう朝が訪れることを、きっと私は心のどこかで望んでいたのだと思う。明日なのか明後日なのか、来週なのか、今月なのか、再来月なのか、今年中なのかは分からないけれど、いつか訪れてほしいと望んでいた。望んでいないというのは、きっと嘘になる。もっといえば、私が望んでいたのは、きっかけだ。

 寝返りを打った時、自分が普段寝ているベッドとは違う感触が、全身に伝わる。スプリングの軋んだ感じが違ったし、布団が軽かった。

 違和感は覚醒を一気に近づけた。

 ピスタチオグリーンのような柔らかい色合いをした緑のカーテンが、視界一杯に広がっている。薄いカーテン越しに部屋へと入ってくる陽射しは、白いレースや窓のお陰か随分と穏やかなように思えた。私の家のカーテンではない。

 それまでの思考が一瞬にして停止し、急速でここに至るまでの経緯を思い出そうとする。布団の中で何かを確かめるように手を動かす。肩や腰の辺りに、普段より少し窮屈さを覚えた。誰かの服を借りているのが分かった。

「……起きた?」

 私が過去を思い返すのを拒むように、少し低い女の人の声が、私の背中のずっと向こうから気遣うように、そっと部屋を滑り落ちる。独り言だったような気がする、と思い込んでも十分な声の小ささだった。狸寝入りを決め込んで、昨夜のことを思い出そうと努めても良かったのだけれど、このまま眠り続けてしまえば、あの人を心配させてしまう感情が勝った。

「起きました」

 お酒と暖房で痛めた喉から絞り出した声は、見事に掠れたものだった。寝返りを再び打って、声の主を探す。

 綺麗に磨かれたベージュのフローリングは天井に吊るされた白い照明を見事に反射させていた。ベッドから少し離れたところには、一人で使うには少し大きい、フローリングと同じ色のテーブルがある。猫が描かれた白いマグカップが、音を立てないように優しくテーブルへと置かれる。

 細い手はテーブルの上で何かに迷っているように左右に動く。テーブルを挟んで置いてある二脚の椅子、そのどちらかに座るか悩んでいるようだった。リビングと一体化しているキッチンから近い椅子に手が伸びる。きぃっという高い音が、辺りに広がる。そっと椅子に座った女の人は、細いホワイトデニムを穿いた足を組み、白い足先にネイビーのルームスリッパを引っ掛けている。爪先に引っ掛けただけのスリッパは私の眠りを誘うように微かに揺れている。

 この人との付き合いは大学に入ってから何年か続いているけれど、こういうところは初めて見るような気がする。家だとこんな感じなのだろう。

 珍しいと思いながら、自分の昨夜の言動を少し思い出せるようになった。恥じるように布団を頬辺りまでかける。自分の家では嗅いだことのない、ミントの爽やかな香りが呼吸をする度に鼻の中を通る。

「あの、長原さん、済みませんでした」

 私は目だけを上げて、女の人の顔色を窺う。長原さんは私の言葉を口にすると全然聞こえなかったといった様子。小さな唇が一瞬、頬に上がったように見えた。良いよそんなこと、と言おうとしたのかもしれない。そんなことは私の気のせいと思わせるように次に気づいた時には、アイボリーのざっくりとしたニットの上で、色の薄い顔を傾げさせている。

「二日酔いは大丈夫そう? 気持ち悪いとか頭が痛いとか、ない?」

 頭は重いけれど、これは朝のいつものことなので、二日酔いによってもたらされたものではない。

「ないです」

「なら良かった」

 サークルの送別会で、長原さん達は送られる側だった。秋の間に就活を終わらせ、十二月には卒論を書き上げた長原さんは、もうそれは周りの先輩達とは全然違う余裕やゆとりや軽やかさを持っていた。普段そんなに飲まないはずのに、色々なお酒を美味しいと言って飲んでいた。私も飲んだ。ビールにカシスオレンジにレモンサワー……。

「長原さんは?」

「大丈夫」

 長原さんの顔に変わった様子は見受けられない。黒縁の大きな眼鏡をかけていて、気を張った、真面目な表情。何かを考えているかのように眉根には薄っすらと皺が寄っているように見えるし、すらっとした鼻筋も変わらない。短く言い切るのも、いつもと変わらない。

「送別会でしたよね?」

「サークルの送別会で私達が酔っ払ったら、下の子達が心配するでしょ?」

「それ、部長達にも言えます?」

「言わないわよ、そんな空気の読めないこと。それに」

「それに?」

「あの人達は酔っ払うのが好きだから」

 長原さんは大学で見慣れた表情で、笑う。長原さんは笑うとそれまでの雰囲気が一気に崩れる。ぎゅっと結ばれがちな赤い唇が、緩くなり、白い歯を見せて笑う。眉根に寄りがちが力を抜ける。モカブラウンの瞳が柔らかく細くなる。揺れる肩に合わせて黒いマッシュショートの髪が揺れる。破顔した、という表現があるけれど、あれが嘘じゃないということを、私は長原さんの笑顔に教えてもらった。

 昨夜の飲み会で何度か見かけているはずなのに、長原さんがそうやって笑うのを見ると、安心する。

「酒井はまだ寝たい?」

「何時です?」

 長原さんの視線がベッドの側へと動く。私の視線も流れるようにそちらに動いた。枕元の側に、ベッドと同じ高さぐらいの棚が置いてあり、そこに置かれている小さな観葉植物の葉の影に隠れるように、丸い時計がある。私と長原さんの視線を受けても、時刻は遅くなることも早くなることもなく、一定のペースで時を刻む。私達の声が重なった。

「十三時半……」

 二次会でカラオケまで行ったことは覚えているけれど、そこからどうやってここに辿り着いたのかは全然思い出せない。カラオケの支払いとか長原さんの家までのタクシー代とかそういうお金の部分がどうなっているのかも不明だ。でも、長原さんの家に泊まって、長原さんが居るということは、多分きっと、長原さんが上手いことやってくれたのだろう。

 そういう親切や優しさにまだまだ甘えたくなる。後数ヶ月したら、長原さんは大学を卒業し、社会人として新しい生活を歩む。めでたいことで、お祝いをしたい気持ちはあるけれど、今はまだ全然そんな気になれない。

 カーテンの方に寝返りを打つ。それだけで、私の意思は、長原さんに伝わったらしい。ふーん、と短い、何かを探るような呟きが、背中から伝わる。

「お腹減ってない?」

「朝は食べない主義です」

「お昼は?」

「和食が良いです」

 長原さんが何かを考えているらしい沈黙が、部屋に落ちてきた。

「白ご飯とわかめとお豆腐のお味噌汁とだし巻き卵とサラダ?」

 私の鼻先を、炊き立ての白ご飯や熱いお味噌汁の香りが過ぎ去る。お腹が鳴ったような気がする。

「納豆も欲しいです」

「納豆嫌い」

「安くて栄養あるんですよ」

「それとこれは別の話」

 長原さんは席を立ち上がったらしく、椅子がか細い音を立てる。冷蔵庫を開けたらしい重たい音が続く。少しの沈黙があって、私の背中に長原さんの視線が集まる。冷蔵庫を閉めるのと長原さんが短い息を漏らすのが重なった。

「買い物してくる」

 その言葉の裏に、帰って来た頃には起きておいてほしい、という願いがありありと感じられた。だから私は飽きたように寝返りを打ち直して、ベッドの上で起き上がり、欠伸を噛み殺しながら、グレーのダウンジャケットを羽織り、黒いブーツを履いて買い出しに出て行く長原さんに向けて手を振る。

「お気をつけて」

「お風呂でも入って、ゆっくり起きてちょうだい」

 長原さんがドアを開けて家を出た時、すぐに冷気が中へと侵入してきた。寒かったので布団に戻りたくなったけど、あまりに寝ていると本格的に長原さんに怒られる予感があったので、布団から出ることにした。ベットサイドにはマットが敷いてあり、ネイビーのルームスリッパが置いてある。私のために用意されたのかもしれないけれど、こんなふうにもてなされるとは思ってなかったし、こんなふうに長原さんの家にお邪魔する気もなかった。複雑で、不思議な気持ちになる。

 部屋の片隅に置いてある私のバックパックには、昨夜どこかのコンビニで買ったらしい下着類などが入っている。昨日着ていたマスタード色のニットはバックパックの側に畳まれており、襟のついた白いシャツとアースカラーのロングスカートは、コートハンガーに掛けてある。隣には最近まで長原さんが着ていたと思われる黒いリクルートスーツが掛かっている。

 二日連続で同じ服を着るのは好みではないけれど、そういうわがままは言ってられない状況だ。私は長原さんの言葉に従うように、お風呂を借りることにした。色々と気持ちを切り替えたかったというのが本音だ。

 洗面台は三面鏡が設置されていて、化粧道具や化粧落としが品良くまとめられ、洗顔料や化粧水などもあり、ドライヤーや歯ブラシが置いてある。蓋が閉じられた洗濯機の上には真っ白なバスタオルとタオルが重ねて置いてある。

 お風呂場は白いタイルに、オレンジがかった照明。シャンプーやコンディショナーなどが市販のまま置いてあるのではなく、別の白い無地の容器に移し替えられている。借りまーす、と小さな声で宣言して、色々と借りた。ゆっくり起きてほしい、という言葉を思い出して、湯船にも浸かってみることにする。

 ふかふかの白いタオルで髪の毛の水分を取りながら、キッチンに目を向ける。暗いままだった。タオルで乾かす自分の長い髪から、長原さんと同じ、ほんのりと甘い、桜の香りが漂ってくる。

 冷たい物が欲しくなって、冷蔵庫を空けると卵が一つと適当な大きさに切られた人参と玉ねぎ。食パンにお米、お味噌もある。ボトルラックには調味料とアイスコーヒーぐらいしか入ってなかった。

 心配になって、スマホで、ちゃんと買えてます? とメッセージを入れると、順調と長原さんらしい返事。そっちは? と続けられ、お風呂も入ってばっちりです、と返す。暇だったら早炊きで白ご飯でも炊いておいて、冷蔵庫にあるからと命じられた。

 仕方ないと呟き、私はドライヤーで長い髪を乾かしてから邪魔にならないように後ろで一つにまとめると、白ご飯を炊く用意に取り掛かる。すぐに用意を終えて、戸棚から適当なマグカップを取り出し、アイスコーヒーを頂くことにした。これくらい飲んでも、バチは当たらないだろう。

 ピスタチオグリーンのカーテンを開け放つと、白いレースの向こうで高いところに昇っている陽射しが降り注いできた。

 椅子に座り、家主の帰りを待つ。冷蔵庫やエアコンの稼働音だけが、部屋に響く。何かした方が良いのかもしれないけれど、私が今できることはもうないように思われた。勝手に部屋を覗き回る趣味もない。大きな白いクローゼットの中を開けたりする趣味もない。

 ただでも、視界に入るものがある。ベッドサイドに置かれている棚は本棚だった。教科書などがしまわれており、タブレットやノートパソコンもある。就活の面接や書類選考の参考書も見える。その部分だけが、大学生としての長原さんを感じさせた。もっといえば、人に見られてもいい長原さんの部分のように思えた。

 スマホで、暇です、と長原さんにメッセージを送る。良いじゃない、暇で、と立腹しているような返事が返ってきた。私はスマホをテーブルに伏せて、全身で暇を味わうことにする。でも、自分の家じゃないからか、落ち着きなく、考えてしまう。

 私は中高一貫の地方の女子校から、大学合格を機に上京した。エスカレーター式に女子大に入学できたのだけれど、それは少し嫌だった。他の世界のことも知りたくなったのだ。

 そうして一つ歳上の長原さんを知った。知り合った当初の長原さんは、良い一言でまとめると不思議な人だった。悪い一言でまとめると、一人でいることが多い人だった。

 これは何も長原さんが、学部やサークルに友達はいないというわけではない。先輩や同学年や後輩と色々な人と居るところを見かける。ただ、その輪の中にいるようでいない人なだけだ。集団の中で浮いているというわけではない。集団に溶け込めているのだけれど、何か違和感がある。そういう人だ。留年や浪人によって、集団の中にいることに違和感を覚えさせているわけではない。

 長原さんと知り合って分かったけれど、この人は他の人と距離を作っている。それも明確に。こちらが一歩距離を詰めれば、一歩離れるように。人と近づく時に何かを意識しているように、一定の距離感を保とうとしている。

 私はそういう距離感の作り方をしている人を何人か知っているし、中学や高校の時分に出会ったことがある。同性の人を恋愛対象としている人は、そんなふうに多くの人には分かりにくい距離を取り方をする。だからきっと、長原さんもそうなんだと思う。本人の口から聞いたわけではないけれど。

 伝聞として度々聞いたことがある。長原さんに男性の恋人がいたということは。誰とも長続きしなかったということも聞いたことがある。本人は、男運が悪いなんて笑っていったけれど、あれは多分、嘘だろうと思っている。

 長原さんは恋人を作らないまま大学を卒業しようとしている。もう大学で恋人を作るのはいい、というような噂すらある。

 私は全てのことを明らかにしたくて、長原さんと話せる機会を待っていた。

 こうまで私が長原さんのことを気にしているのは、私も彼女と同じように、同性を恋愛対象にしているかもしれないと思っているためだ。中学生や高校生の頃は、周囲に同性しかいないがために、友情の延長のようなものとして捉えていた。教師に異性の人はいたけれど、彼等と私達とではあまりに年齢が離れ過ぎていたため、そういうことを考える対象にならなかった。共学の大学に入学し、バイトなどでも異性と接する機会に恵まれれば、自分の恋愛対象がどちらかあるいは両方なのか分かるだろうと思った。

 その結果、私は、何年も前から、長原さんのことを気にかけていることに気づかされた。一過性のものでも何でもなかった。年上の人への憧れでも、友情が作り上げた幻でもなかった。どうして彼女に惹かれるのかは私自身まだ分からない。ただ、この人ならば、私と同じ気持ちを、私に懐いてくれるかもしれないという直感めいたものがあったのだろう。

 長原さんはどうなのだろうか。長原さんは同性を恋愛対象にしていて、私を好きなのであろうか。

 そういうことをを明らかにしたくて、私は長原さんと二人っきりになれる機会を求めた。送別会で飲み過ぎて長原さんの家に上がるということは想定していなかったけれど。

 多分、今日を逃せば、長原さんと誰にも邪魔をされず、誰の聞き耳を気にすることなく話す機会はない。

 玄関のドアが騒がしくなり、長原さんの戸惑ったような、慣れない堅い声がした。

「ただいま」

 私も釣られたように戸惑ったような声を上げる。

「……お帰りなさい?」

 長原さんは靴を脱ぐ前にコートを脱いで、シューケース側にあるラックに掛けて、ブーツのチャックを下ろしながら、首を傾げる。

「不思議」

 私は長原さんの側に歩み寄って、彼女の手からスーパーの袋を受け取る。

「そうですか?」

 冷たい指先が、私の指先に触れる。長原さんは自分自身を落ち着かせるように頬を上げる。

「一人暮らしじゃ、言われないから」

 袋の中には、小分けにされたお豆腐のパックや卵、色鮮やかなキャベツや人参、小振りな玉ねぎなどが見える。納豆はない。冷蔵庫に全部しまっていいのか悩んで、長原さんに尋ねる。朝ご飯にもお昼ご飯にも遅い時間だった。

「もう作ります?」

「お腹減った?」

 私は恥ずかしげに、空いている手でお腹をさする。

「ぺこぺこです」

「じゃ、作りましょう。酒井」

「はい、なんです?」

「当然、手伝ってくれるわよね?」

 長原さんは笑った。でも、普段のような柔らかい笑顔ではなく、目元と口元に弧を描くだけのもの。こういう笑顔を、長原さんが人に忠告を注意をする時に使うことを私は度々目撃していたので、無言で何度も首を縦に振ることしかできなかった。

 洋食派の長原さんがサラダを作ることを宣言し、私がお味噌汁とだし巻き卵を作ることになった。洋食派の長原さんの家に、卵焼き機があるか不安になったけれど、流しの下にある棚から発掘された。長原さん曰く、実家で使っていた物を持たされた、とのことだ。

 長原さんは手早く野菜を切り分けるとボウルにまとめて、リビングのテーブルで作業をする。私は私で家で自炊する時と変わらないように作る。

「焼き加減、希望あります?」

「美味しかったらそれで良い」

「でしたら、半熟でふわふわのにしましょう」

「巻きづらくない?」

「気合いでいけます」

「大事ね……私は全然スクランブルエッグでも良いから」

「私が嫌です」

 そんなことを話しながら、私達は各々の役目を果たす。

 テーブルに並べられた二人分の食事は、見事に朝ご飯だった。ふっくらとして艶のある白ご飯、ねぎを散らしたわかめとお豆腐のお味噌汁は湯気が立っている。ここ最近で会心の出来であるだし巻き卵はお箸を入れる前からもう美味しいと分かる。添えてあるサラダは玉ねぎとトマトとレタスというシンプルなものだけれど、これくらいが丁度良かった。

 洗い物をちゃちゃっと済ませて、私達は非常に遅い朝食を食べた。長原さんはお味噌汁などを口にして、驚いたように口角を上げる。

「美味しいわね」

 褒められて嬉しくなって、胸を張る。

「伊達に一人暮らししてませんから」

「和食って面倒なのよね、朝だと特に」

「生きてるって感じしません? 朝からお味噌汁とか飲むと」

「コーヒーで良いわ」

「それは食後の楽しみに取っておきましょう」

 私はいつ話題を切り出そうかと思いながら、長原さんの調子に合わせていた。朝ご飯を終えて、熱いコーヒーを長原さんに淹れてもらった。二人分のマグカップを持って、テーブルに歩んできた長原さんは、全然世間話をするような軽い調子で訊く。

「それで?」

「……それで、って何です?」

 私は全然検討がつかなかったので、同じように軽い調子で訊き返すことしかできなかった。長原さんはコーヒーを一口飲んで、モカブラウンの瞳で私の顔を見つめる。

「話したいこと、あるんじゃない?」

 別になかったら良いけど、と長原さんは興味がなさそうに続けた。私は正直に、言いたいことがある、と言いたかったけれど、それを口にしてしまえば、もう、すぐに本題に進んでしまいそうな予感を覚えていた。逃げるように、私は言葉を選ぶ。

「分かります?」

「そりゃ、ね」

 白々とした視線と含みのある言葉を返され、昨夜のことを完璧に覚えていない自分を悔やんだ。飲み会でどういう話をしたのかなんて最初の方ぐらいしか覚えてないし、その中に私がこれから話そうとしている話題はない。それでも、そういう反応をされるということは、私が覚えていないだけの可能性はありそうだった。

「私、なんか言ってました?」

「言ってないけど?」

「本当です?」

「本当。ただ、あんなに飲んでたら分かる。鬱憤とかストレスとか抱えてるんだろうなぁ、って」

「済みません……」

「良いのよ。それで、一体どうしたの?」

 長原さんは遠回りを続ける私を導くように、本題の前へと私を立たせた。もういい加減逃げられないと覚悟した私は、長原さんに伝える。

「私、長原さんに言いたいことがあります」

 長原さんのコーヒーを飲む手が止まった。

「私?」

 意外そうに高い声を上げた長原さんの視線が、宙をさまよう。私に対して何かあったのか、と探しているようだった。私は両手を顔の前で慌てて振って、取り消す。

「あ、いや、別にこれは何も、長原さんに対してストレスとかそういうのを抱えているっていわけじゃないんです」

「あ、そうなの。良かった」

 ほっと安心したように、長原さんは笑う。

「ただ、でも、言いたいことはあります。伝えたいこと、って表現する方が適切かもしれません」

「何?」

「私、長原さんのことが好きです」

「改めて言わなくても知ってる」

 私が好きが恋愛対象として向けられていることに気づいていない反応だった。私は震える身体を支えるように、力強い声で否定する。

「そういう好きじゃないです」

 長原さんは大きな目を見開いて、私を見ている。部屋に広がった沈黙は、瞬く間に冷たいものとなって私に襲いかかる。この沈黙の間、長原さんは一体何を考えているのだろうか。長原さんは私から視線を外すと部屋の左右を見渡し、また私を見る。固く結ばれた唇が、小さく動く。冷ややかな調子だったけれど、言葉の随所に私を思い遣る温かいものが感じられた。

「私じゃない方が良いわ」

 告白を断る言葉としてはこれ以上ない言葉であるはずなのに、私は全然悲しい気持ちになれないでいた。そうですか、と認める気持ちも浮かんでこない。ただ、長原さんの言葉に引っ掛かりを覚えていた。はっきりと距離を詰めようとした私を、長原さんは一つも離れることなく拒んだような気がした。人から離れるのではなく、近寄ってきた人の胸元をそっと押し返すような弱々しい力を、感じた。

「私だといけませんか?」

 長原さんは俯き、首を横に振る。

「酒井がどうとか、そういう話じゃない」

 私はそもそも前提を勘違いしているのかもしれない。長原さんは別に同性を恋愛対象として捉えていないのではないだろうか。

「同性と付き合うのは、できませんか?」

 耳を澄ませないと聞き逃してしまいそうな声が、長原さんの口から零れた。そうじゃない、と。立て続けに否定の言葉を並べられ、私は困った。

「どうして……」

 大学を卒業するまで恋人は作らないというあの噂は、噂ではなく本当のことなのだろうか。本人の主義主張で振られるのは悲しいことだけれど、そこまでして恋人を作らない気でいる長原さんのことが分からなかった。

 私の疑問に答えるように長原さんは顔を上げる。普段見ている時と何も変わらない真面目な表情だった。でも、眼鏡の奥で輝く瞳は不安げに揺れた名残りがあった。

「私、度々頑張ったんだよ。男の人と付き合ったりしてみたこともある。自分が無理しているのが分かるんだよね。彼女を演じているっていうのが分かる。変われないんだなって思った。……酒井はさ、インターン行った?」

「夏に行きましたけど」

「どうだった?」

「どうって……慣れないことに大変でした」

「そうだよね。私も大変だった。でもさ、そういう大変さが、普通になるわけじゃん? 社会に出て、仕事するってことは」

「それはそうですけど」

「だから、変わるには良い時期だと思った」

 悲鳴に似たような大きな声が、私から口から飛び出した。

「駄目だと思います」

 長原さんの口元に薄らと笑みが浮かぶ。

「駄目って……」

「そんな、自分の気持ちに嘘をついて、そんなの駄目です」

 長原さんの目が、部屋にあるコートハンガーに一瞬移った。そこには、私が見た時と変わらない、黒いリクルートスーツが掛けられていた。

「でも、そうしないといけなかった」

「あの、それで良いんですか?」

「多分、良くない。酒井、……分かってる」

 昔の私もそんなふうに思った。多分良くないだろうと思って、女の園から出て、世界を知ろうとした。その結果、自分のことを知った。私は高校から大学、学校というある種限られた範囲のことだけれど、長原さんの場合は違う。社会というもっと広くて、大きな世界に出るために、自分の気持ちに嘘をつき続けることにした。

「だったら……」

 私の言葉尻を奪うように、長原さんは当たり前なことを言う。

「でも、その方が健全じゃない? 女の人が女の人を好きになるより、女の人が男の人を好きになって、結婚して、子供を産んで、母親になる。両親もそういう人生を歩んでくれた方が喜ぶよ……酒井?」

 呼ばれても返事ができなかった。呆れたような、もう、という言葉が聞こえた。からかうように長原さんが、私の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。桜の香りがした。

「どうして酒井が泣いてるのよ」

 目頭がずっと熱かった。力なく笑う長原さんの姿が崩れる。長原さんの指が私の頬に触れる。震える手が、私の頬を包む。温かな手だった。涙で濡れた声で懸命に伝える。

「だって、嘘つくなら、もっと、あるじゃないですか。……私のことを嫌いって言ってくれたら、それで良いじゃないですか」

 それだけが泣いている理由じゃないのは、私だけが知っていれば十分だった。好きな人が悩み抜いた末に選び取ったのが、そんな未来であり、自分が力になれないのがどうしようもなく悲しかった。

「馬鹿ね。嫌いじゃないのに、そんなこと言えるわけないじゃない」

「そんな優しさ、いりません」

「ごめん」

「もっと自分を大事にしてください」

「うん、そうね」

「それから……」

「ゆっくりで大丈夫だから」

「また」

「また?」

「また、好きになってください」

 長原さんは何も答えなかった。彼女の姿は、涙で見えない。〈了〉


 

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