毎日小説を書くことに意味はあるのか?
「毎日書こう」と思ったけど三日坊主になってしまったり、モチベーションが続かずに途中で止まってしまったり、書きかけの小説を放置したまま気づけば数ヶ月……。
そんな経験、きっと誰もが一度は経験している。そして、毎日書くこと、続けること、習慣化できるものを探すようにインターネットの海をさまよう。
「とりあえず毎日書け」とよく言われる。
創作系のアカウントや執筆指南書、果てはSNSの一言アドバイスまで、「とにかく、とりあえず毎日書け」という言葉を見かける。そういう言葉をみかけて、自分にはできない……自分とこの人達とは違うんだ、と漠然と思うのではないだろうか。
僕も「毎日書く」ことが正義のように考えていた時期があって、2024年の2月1日から9月8日まで、毎日書き続けた覚えがある。


Notionで管理を続け、「毎日書くを復活させた話」や「「毎日書く」を一カ月続けた話」といった記事を書いたこともある。その時期に書き上げたものは公募原稿があったり、短編では「記述問題を回答するのに必要な字数」や「真夜中の会合」、「寂しさを紛らわすために」などである。
続けた感想として、毎日書いた方が良いかもしれないが、毎日書くのはあまりにしんどい。書き上げた作品のクオリティが落ちる速度に耐えられないと思うことがあった。
「毎日書く」ことで、量を作り上げ、その中から質を求めていくということは理解できるのだが、質を手が届くよりも先に、僕の心が保てなくなる方が先だなと気づいた。「毎日書く」ことができる人とできない人がいる。
今では無理に毎日書く、ということをしていない。
ただ、一日や一週間という単位で書く時間がどこに見つけられそうかとスケジュールを確認して、書く時間を先に当てはめておくということはしている。実行できるかは置いておいて。
この記事では、「毎日書く」ことに付きまとっている盲目的な義務感や狂信的ともいえる信仰を解きほぐし、毎日書くことも大事かもしれないけれど、それよりも続けることの方に重きを置き、習慣化のヒントや考え方について共有していきたい。
どうして「毎日書く」ことが良しとされているのか?
「とにかく毎日書け」
創作アドバイスで、これほどよく目にする言葉も珍しい。
では、なぜここまで「毎日書く」ことが推奨されるのか。
習慣化のしやすさ
まず挙げられるのは、習慣化しやすいという点だ。
人間は、「週に一度」より「毎日」の方が記憶にも行動にも定着しやすい。
歯磨きや出勤前のルーティンのように、日々の行動はやがて意識せずにこなせるようになる。
創作も同じで、書くことを日課にすれば、ペースを保つのが楽になる──とされている。
ただ、ここで忘れてはいけないのが、「ペースを保つのが楽になる」というのは、あくまで“ペース”の話だということだ。
書き続けると、確かにリズムはついてくる。
けれどそのぶん、疲労も確実に蓄積する。
なにより、思考の密度が上がっていくぶん、表現に対する悩みや迷いも増える。
この文章でいいのか?
この表現を使う意味はあるのか?
ここから先、どんな展開にするべきか?
そうやって自分の頭をフル回転させていくと、ある日ふと、心がポキッと折れる。
「この程度の小説を書き続ける意味って、あるのか?」と自問してしまうのだ。
積み重ねの強さ
もうひとつ「毎日書け」が推奨される理由は、積み重ねの力だ。
1日500字でも、365日続ければ18万2500字になる。
小さな努力の継続が大きな成果につながる──というのは、たしかに正しい。
でも、考えてほしい。
その18万字が、もしどれも「完結していない」作品だとしたら?
小説を「終わらせる」のは作者しかいない。
そして終わらせない限り、それは“作品”にはならない。
どれだけ字数を稼いでも、未完の山が増えていくだけだ。
それどころか、「自分はまだ本気を出していない」と思い込むことで、実力と向き合うことから逃げてしまう可能性すらある。
だから僕は、書き続けるよりも「完結させる」ことの方が大事だと思っている。
今の自分に書けるものをきちんと終わらせて、そこからまた新しい作品に向かう。
その方が確実に前に進める。
「書けない自分」への不安とSNS
そして、もうひとつ。
「とにかく毎日書け」が流布される背景には、“書けない自分”への不安や罪悪感がある。
SNSを見れば、誰かが「毎日〇〇字書いた」と報告している。
作品を定期更新していたり、毎月何かを発表していたりする。
そういう姿を見ると、自分も「やらなきゃ」「このままじゃダメだ」と焦る。
その結果、「とにかく毎日書けばいい」という言葉にすがってしまうのだ。
だけど本当にそうだろうか?
SNSで見かける「成果物」は、その人のごく一部に過ぎない。
そこに至るまでの時間や背景、好きなもの、過ごしてきた日々は、全部違う。
僕もかつて、SNSで近しい作家を見ては、落ち込んでいた。
でもあるとき気づいた。
僕はこの人とは、そもそもまったく違う。
僕はアニメも漫画も詳しくないし、音楽にも疎い。
読んできたのは主に近代文学だし、他人と比べてインプット量も偏っている。
そんな自分が、同じようなアウトプットを出せるはずがないのだ。
そこから、SNSでの発信や交流を少しずつ減らしていった。
自分が向き合うべきは、他人ではなく「いまの自分が書けるもの」だった。
毎日書かないけれど、続けてゴールを目指す
以上のように「毎日書く」ことには良い部分もあるのだけれど、自分に合わなかったときの反動は決して小さくない。失った心の余裕を補おうと休みに入れば、書き上げられなかった小説の山が積み上がっていく。
負のスパイラルから抜け出すには時間が必要になる。しかしその時間は、焦りや不安をさらに呼び寄せる。
毎日は書かなくてもいい。けれど、続けるにはどうすればいいのか?
僕はこの問いに方向を切り替えて、小説を書き進めてきた。
毎日書くにせよ、休み休み続けるにせよ──どちらの方法でも、目指すゴールは同じだ。小説を書き上げること。
僕自身、「毎日書く」をやめてから約一年が経つが、創作は止めていない。
「二十一グラムの行き先」という短編を書いてしばらく休んだ後、再び筆を執り、この10ヶ月で15本の短編を完結させた。
「例外の定食」からは、隔週で1万字程度の作品を書くというサイクルを意識している。
書けない日も、進まない週もあるけれど、「書き上げる」というゴールだけは見失わなかった。
無理に毎日続けるより、自分のペースで確実に前に進む方法を見つけられたと思っている。
続けるためには、「仕組み」が必要だった
僕がこの1年で気づいたのは、気合いでも根性でもなく、
続けるためには「仕組み」が必要だということだ。
たとえば:
• スケジュールを立てて、書ける日をあらかじめ決めておく
→ 実行できるかどうかより、まず「いつ書けそうか」を“見える化”する。
• 「1日で書ける量」をざっくり把握しておく
→ 「今日はここまで」っていう自分との約束を作る。
• 書けなかった日も記録する。理由も書く
→ 「やる気が出なかった」ではなく、「プロットに詰まった」「仕事で寝落ちした」など、具体的にする。
• 振り返って、自分に合うパターンを見つけていく
→ 無理に理想通りやろうとしない。自分に合う仕組みに整える。
「休む」ことも、仕組みにしてしまおう
そして何より大事なのが、「休む日」もスケジュールに組み込むこと。
• 書き上げたら、1〜2日完全オフ
• 週に1日は執筆をしない日を作る
• 月に1回、インプットや振り返りに使う日を設ける
休むのは、サボることではない。回復して、次に進むための準備期間だ。
むしろ「休みを決めておくこと」で、罪悪感が消えて、また集中できるようになる。
毎日書かない、でも「書き上げる」ことはやめない
大事なのは、「どれだけ書いたか」ではない。
**どれだけ“書き上げてきたか”**だと思う。
毎日書かないと不安になる人もいる。
でも、毎日書かなくてもいい。週一でも、隔週でも、一ヶ月に一度でもいい。
続けることと完結させること。
この二つをバランスよく、自分に合った「仕組み」で回していく。
その先に、自分の小説がちゃんと残る。それが何より大切だと思う。