処女作に作家の全てがある。
そんなことを言ったのは、誰だったでしょう。誰もそんなことは言っていなくて、それに近い言葉が、成り代わっただけかもしれません。
冒頭に掲げた言葉を信じている節があります。気になるなぁ……と思う作家の作品を読む時には、その作家の処女作を読むことを心掛けてます。村上春樹の場合もその例に漏れません。
昨年の年末に、何冊か本を譲ってもらい、その中に初期三部作があり、海辺のカフカの上下巻があり、東京奇譚集があり、サルトルがあり、村上龍の作品がありました。
どの作家から読んででも良かったと思います。村上春樹が選ばれたのは偶然のような気がしてなりません。処女作である「風の歌を聴け」があったから、村上春樹から読もうと思ったのかも……。
「風の歌を聴け」は全然読めませんでした。この記事を書いている今でも、数ヶ月前に読んだのが最後で、そこから一文も読んでません。書かれていることや表現が難しかったわけではありません。
「僕」があまりに若く、青く、関西人の自分が読んだ時そのままの言葉を用いてしまえば、イキった感じが冒頭からずっと続いていて、痛々しくて堪らない。要所要所で挟まれる蘊蓄、鼻につく表現、世界の全てを知っていてでもそれを詳らかに話すのを意図的に避けているような若々しさと白々しさ、女性との関係……読み続けるのが恥ずかしくなってしまいました。
ネットで度々見かけた村上春樹、伝聞でした知ったことのなかった村上春樹のスタイルや文体が冒頭から続き、自分はこれからもずっと村上春樹は合わないのだろう、と思いました。処女作でこういう感じなのだから、他の作品もこういうふうに描写され、展開されるのだろう、と。
ただ自分の本棚には、初期三部作の他に海辺のカフカの上下巻があり、短編集の東京奇譚集がある。カフカは初期三部作と同じように長編小説ということもあり、手は伸びませんでしたが、「東京奇譚集」は短編集なので、また違ったものがあるかもしれません。また、友人からの強い勧めもありましたので読み始めました。
「東京奇譚集」は、最後まで読めました。村上春樹という作家の作品を読んだ時に味わった要素は「風の歌を聴け」より薄まっておりますが、ほんのりと漂うお洒落な感じは要所要所にあります。
そして、村上春樹の評価は自分の中で変わりました。いけすかない作品を書く小説家から、短編小説が上手い小説家へと。
東京奇譚集は、四つの短編が収録されている短編集。どれも奇譚というタイトル通り、普通では起こり得そうにないものが作中で登場します。
自分はその四つの短編の中で二つ目の短編が気に入りました。極上の読書体験をした、と言っても過言ではないでしょう。
インターネットや現実で見聞きしていた村上春樹のイメージ、想像、印象、そんなものがどうでも良くなる。最高の経験を味わいました。
小説における美を再び、改めて、自分の目の前で展開された喜びと驚き。
「ハナレイ・ベイ」という短編がそれです。
ハワイ・カウアイ島のハナレイ湾を舞台に、10年前のサーフィン中の事故で一人息子を失ったシングルマザーであるサチが希望を見出す姿を描く短編。
作品の多くはハナレイで展開され、日本からやってきたサーファー達と知り合ったりして、サチは帰国します。自分が最高だな……って思った一文に出会うまでの場面を少し長くなりますが引用します。
日本に帰ってきて八ヶ月ばかりして、サチは東京の街でずんぐりに出会った。六本木の地下鉄駅近くのスターバックスで、雨宿りにコーヒーを飲んでいると、近くのテーブルにずんぐりが座っていた。アイロンのかかったラルフ・ローレンのシャツに、新品のチノパンツという小ぎれいな格好で、小柄な顔立ちのいい女の子が一緒だった。
「やあ、おばさん」、彼は嬉しそうな顔で、席を立って彼女のテーブルにやってきた。「キグウっすねぇ。こんなところで会うなんて」
「よう、元気してる?」と彼女は言った。「髪がずいぶん短くなったじゃない」
「もうそろそろ大学も卒業っすからね」とずんぐりが言った。
「ふうん、あんたでもちゃんと卒業できるんだ?」
「ええ、まあ、こう見えていちおうそのへんは押さえてますから」、そして向かいの席に腰をおろした。
「サーフィンはやめたの?」
「ために週末にやってますが、就職のこともありますし、そろそろ足を洗わないと」
「ひょろひょろの友だちは?」
「あいつは超気楽なんですよ。就職の心配ありません。親が赤坂でけっこうでかい洋菓子屋をやってんです。うちを継いだらBMW買ってくれるんだって。いいっすよね。俺の場合、そうはいきませんから」
彼女は外に目をやった。夏の通り雨が路上を黒く濡らしていた。道路は渋滞して、タクシーが苛立たしくクラクションを鳴らしていた。
「あそこにいる子は恋人?」
「ええ、ていうか、まだ今のところ発展途上なんですけど」とずんぐりは頭を掻きながら言った。
サチとずんぐりの会話はここからも続くのですが、会話の中で差し込まれた地の文が非常に良かったなと思ってます。
彼女は外に目をやった。夏の通り雨が路上を黒く濡らしていた。道路は渋滞して、タクシーが苛立たしくクラクションを鳴らしていた。
この一文がなくても、物語は問題なく進行されるでしょうし、二人の会話も問題なくて展開されると思います。おそらく、物語に必要ではない描写だと思います。ですが、小説を楽しむ際には絶対に必要な描写だと信じてます。
この描写にどうしてこんなに惚れ込んでいるのかと言いますと、一言で説明しますと、非常に映画的な描写、作品世界の奥行を感じさせるためです。
この一文をもっと前、冒頭の段落に埋め込んでも描写としては機能したと思われます。そういう場所で話している二人というのが読者に分かりやすく提示されることでしょう。場面がイメージできる一方で、二人の会話の途中で生じる間は失われてしまいます。この一文の素晴らしさは、二人の会話から少し距離を置き、それまで物語がハナレイという場所、海が近い場面からずっと遠くにある日本・東京・六本木という場所で再会した二人を描くことにこれ以上ない効果を発揮しているところだと思います。
作品世界の街並みを鮮やかに、カメラが二人の会話を離れ、奥行きを描く。そういうことに成功した一文だと思います。
「ハナレイ・ベイ」という短編小説は、この一文以外に多くの描写や会話が存在しております。自分はここに至るまで、あるいはここから展開される文章に、この一文に出会った時の感動も興奮も、村上春樹という作家が描く短編小説の上手さも感じることはありませんでした。
ただこの一文は、何気なく差し込まれたこの三つの文章・描写は他のどの文章よりも素晴らしいと思っております。