「休んでいる話」の中で、
読んでいる本について書くと長くなりますので、別の雑記でまとめたいなと思います。
と書いてました。
本記事は、その別の雑記となります。読んだ本を全て書き出して、所感を色々と書いても良いのですが、そうなるとかなりの量となってしまいますので、今回は何冊かに絞ります。
※リンクは全てAmazonに飛びます。Amazonのアフィリエイトは利用しておりませんので、リンクから飛んで購入されても、書き手である僕には一円も入りません。ご了承ください。
・「サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇」(著:オスカー・ワイルド)
この本は休むぞ〜と心に決めた時に、なるべく愉快な話を読みたいと思って本屋に足を運び、目に留まりました。
なるべく長くなく、短くまとまっていて、読みやすいものを考えた時、戯曲が候補となり、そういえばワイルドってサロメ以外の戯曲って読んだことないかも……? と思い、買ってみました。
「サロメ」には、サロメは七つのヴェールの踊りを踊る、というト書きがあります。僕はこの作品を読み、このト書きを読む度に、戯曲としての美の頂点があるなぁ、と痛感します。
もし本作が小説であれば、ここは物語のクライマックスに至る非常に大事なシーンでありますので、描写に描写を重ね、この七つのヴェールの踊りがいかなるものなのか、と読者の頭の中に描かせることでしょう。あるいは、サロメの妖艶さえを表現させることでしょう。
ですが本作は、戯曲であり、戯曲ということは舞台です。文章を読むよりも、舞台で観客が観るものです。ですので、演者がどのような動きをするのか、という指示書きが必要となり、ト書きが必要となります。
どう七つのヴェールの踊りを踊るのか、というより、この場面で演者は何をどうするのか、というト書きの方が重要です。どう踊るのか、ということは監督や演出家が考えることですので。
このト書きは読者である僕達に、七つのヴェールの踊りがどういう踊りなのか、ということは一つも説明されません。ですが、僕達はこの踊りの美しさをあまりに容易に想像していると思います。
「サロメ」は良い悲劇なのですが、この本の良いところは残り二つの喜劇です。
「ウィンダミア卿夫人の扇」と「まじめが肝心」の二つの喜劇が収録されていることで、ワイルドという戯曲作家の凄さが分かります。
「ウィンダミア卿夫人の扇」と「まじめが肝心」はどちらも、肩の力を抜いて楽しめる、休むぞと決めた時に読んで良かった、エンターテイメント性の高い作品です。
分かりやすい筋、ユーモヤやウィットに富んだ数々の会話は、風俗喜劇の王道でした。
作品を鑑賞すると、少々、デウス・エクス・マキナのようなものを感じさせることはあるのですが、軽やかなで愉快な喜劇であるのであれば、それも良いか、と許せてしまいます。
僕の胸に残ったのは、ただただ楽しかった、という気持ちだけです。
エッセイ集です。
僕は著者のことを何も知りませんでした。本屋に一角で平積みにされていて、ふと気になって手に取って、冒頭に掲載されている「なにもできなくても」を、ぱらぱらと目を通しました。
僕は、その筆致に心が動きました。
読者である僕の指先に、著者の心の一部分が触れている感覚。柔らかいものを自分の指先で弄んでいるような感覚。そして、それを大事にしたいと自分の心のどこかで理解している感覚。冷蔵庫から卵を一つ取り出して、割れないように持っているあの時。
「なにもできなくても、見ていなければいけない」という命題が、「なにもできなくても、見ているだけでいい。なにもできなくても、そこにいるだけでいい」というメッセージに、変わった。
という文章が、「なにもできなくても」に出てきた時、僕はこの本を買うことを決めました。
僕はこのエッセイ集を読んで、ずっと凄いな、という驚きに襲われておりました。私小説で見受けられる告白とは違う、著者の感覚を、読者に差し出すこと。テキストを通じて、薄いヴェール越しに存在している著者の心に直接触れている感覚。
・「利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学」(著:近内悠太)
大きな枠組みで捉えますと、本書はケア論というものになるのかもしれません。本書で取り組まれる問題を、「まえがき――独りよがりな善意の空回りという問題」から引用します。
最後に確認しておきたいのは、本書で取り組む問題は、なぜ僕らは見返りを求めず何かを差し出すという贈与ができないのか、ではありません。そして、どうすれば利他とケアのモチベーションを人々が持つことができるのか、あるいは、どのようなインセンティブ(報酬)とサンクション(制裁)を設計すれば人々に「やさしい人」が増え、「やさしい社会」になるか、という利益誘導に関する問いでもありません。
そうではなく、僕らの善意の空転はそもそも防ぐことができるのか? そして防ぐことができるとすればそれはどのようにしてか? というものです。
そして、利他を哲学していった先に、「利他とは相手を変えようとするのではなく、自分が変わること」という主張へと辿り着き、そこから「セルフケア」の構造が取り出されます。
ケア論というものを考えた時、人間と社会の関係だとか、福祉だとかそういうお堅いことを考えるかもしれませんが、本書は文学作品や漫画などを例に挙げて、僕達に近い世界でケア論というものを論じて、上記の問題について取り組んでくれます。
本書でケア論という輪郭に触れて、本格的なケア論に進むのもありかな、と考えております。