星降る夜になったら

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梅雨が終わり、厳しい暑さが幻想郷に満ちていた。チルノは、風見幽香の家が幻想郷の中で最も星が見えることに気付いた。花に良いから、と幽香は教えてくれた。チルノは星を観るようになってから、幽香の家で過ごす時間が増えた。そうして、幽香がチルノが何をしに来たのか聞かず見守ってくれていることや少しひんやりとした空気が室内に広がり、冷たい紅茶で毎回もてなされ心地良いことにも気付かされた。
幽香の家は、見るという環境に非常に適した所だった。幽香はアイスティーを飲みながら、チルノと同じように瑠璃色の空を眺めている。その目には、チルノの期待に満ちたものとは違い、微かな困惑が流れている。しかし、幽香は何も訊いてこない。訊いたところでチルノが答えないと思っているのだろうか。チルノは幽香が訊いてくれば、答える気でいる。ならばどうして幽香が連日、沈黙を貫いているのかといえば、幽香は見ることの大切さを知っているからであろう。チルノが星を見ることの大事さを知るずっと前から、幽香は花を育み、見ている。きっと幽香は、このままチルノから口を開けなければ、ずっと何も訊いてこないことだろう。チルノは窓から離れ、幽香の方に視線を移す。
チルノはようやく、幽香に星を見る理由を話しはじめた。
「星が見えないんだ」
「……見えない?」
幽香はチルノと同じように窓の方へ近付き、身を乗り出し、星を見た。夜空には、小さい星や弱く光る星や白い星や赤い星や青い星が一面に広がっている。幽香は、見えるじゃない、と言いたげにチルノの方に向き直る。
けれども、今日の夜空にも、昨日の夜空にも、一昨日の夜空にも、あの一際輝く星は見えなかった。チルノはあの星の名前を知らなかった。だから、幽香に、あの星が見えないことを正確に伝えられない。チルノだけが見えないのか、チルノ以外にも見えないのかすら分からない。チルノが見えないということは、きっと他の者にも見えていないのだろう。そう思えるのは、チルノが氷の妖精であり、幽香達妖怪よりも自然の産物に近いからである。
星が足りない。
そんな勘が、ほとんど自然に浮かんだのである。チルノはあの星について、名前を知らない。しかし、あの星が見えないことはチルノにとってしてみれば、大きなことであった。チルノは人間が時計の針の動きで時間を知るように、星の動きで時間を知る。まず太陽が昇れば朝になり、沈めば夜になるという大きな括りがある。その大きな括りを小さく細分化するのが、星の動きであった。長い針と短い針の働きのように。その星が、見えなくなった。沢山の星の中から、あの星だけが見えなくなった。
幽香に分かるように言葉を選んでいたチルノの頭は、最も幽香に伝わるであろうこういう言葉を発明した。
「あの星は向日葵なんだ」
「……それは大変ね」
幽香はこの時、はじめてチルノに同情したように目を細めた。幽香は窓の近くの椅子に座り、チルノに近くに座るように手招く。チルノは幽香のこういう態度が、他の人間や妖怪のように小馬鹿にするのではなく、対等の相手として認められているようで嬉しかった。幽香は目を凝らして、沢山の星を見ているが、チルノの言った、あの星がどれなのか分からず、チルノの言葉を促すようにアイスティーのおかわりを入れた。チルノは一口飲み、喉を潤すと決意を固めた。
「探しに行く」
「何を?」
「星を探しに行く。あの星がなくなるわけないんだよ」
「星を探しに?」
「うん」
「星を探しに……楽しそうね?」
「あたいは真剣なんだ」
「ごめんなさいね、茶化して」
「だったら、幽香も一緒に探しに行こう?」
「私は駄目よ。あの子達のお世話があるから」
幽香がここを離れれば、この広い向日葵畑を誰が見守り、愛でるのであろうか。となると、チルノ一人で星を探しに行く必要があるのだろう。しかし、チルノ一人ではあの星を探し出せる気がしない。幽香が花のことに詳しいように、チルノも星のことに詳しければ、あの星を見つけ出すことは容易いであろう。しかし、チルノはあの星の輝きしか知らない。あの星に時を見ていたため、何時になったら見えるようになるのかも知らない。氷精であるがゆえ、日の高い時間は強い太陽の光から逃げるように日陰で過ごしたり、涼しい所から出ないため、あの星が昼間は見えるのか、見えないのか、ということは分からない。
チルノが知っていることと言えば、あの星は夜にだけ見える星ということだけだった。あの星のことについて知らないことばかりだった。しかし、だからこそだろうか、あの星が見えなくなった時、すぐに気付いた。
チルノは探索に出かけたかった。しかし、チルノは氷精であり、暑さに滅法弱い。一日中、あの星を追いかけることはとてもだが不可能なことだ。それでも、チルノはあの星を見つけ出したかった。
あの星を見ずに一日を終えることが何度かあったが、その度に、心に不思議な気持ち悪さが広がった。あの星を見ずに一日を終えた時に広がる、あの空白。一日の内にあったリズムが崩された気持ち悪さ。それらの気持ち悪さは、快・不快という感情に終わるのではなく、もっと奥の方で、いくつかの感情と絡み合っている。そういう気持ち悪さであった。
あの星を再び見ることができれば、そのような気持ち悪さは消え去ることだろう。
チルノ一人では、昼間にあの星が見えるかどうかということは分からず、昼の間、ずっとこの気持ち悪さと一緒に過ごすこととなってしまう。堪えられないことだった。今日までは堪えられたことだった、気持ち悪さを気持ち悪さと思わず生活してきた。あの星がないことを知りながら、チルノができることに気付かず、過ごしてきた。しかし今では、チルノはこの足で幻想郷を駆け巡り、あの星を探し出そうとしている。
迷子になった星を導き、また共に過ごしたい。チルノにとって、あの星は数多ある星の中でも特別な意味を持つ星なのだ。
長い沈黙がチルノと幽香の間に満ちていたが、幽香がチルノの前にそっと指を一本立てる。唐突なことに驚くチルノを他所に、幽香は微笑し、柔らかい調子で言う。
「私はあなたと一緒に行けないわ。私の代わりが努めるほど強力じゃないけど、大切なものをあげるわ」
幽香が掌を開けると、そこには大きな向日葵があり、指の隙間からは別の植物の枝や葉や蕾が零れている。向日葵と別の花で作られた首飾りのようだ。
幽香はチルノの後ろに立ち、向日葵の首飾りをはめてくれた。
「向日葵……?」
「そう、あなたの力になってくれる大事な相棒よ」
「この花も?」
「そうよ、その花もあなたを助けてくれるわ」
「霊夢みたい」
「あんな人間と一緒にしないでちょうだい」
「でも、霊夢もくれるよ?」
「あんなのと一緒にしたら、花が可哀想だからやめてほしいわね」
「ごめん」
幽香はチルノの側を離れると、引き出しから一冊のノートを取り出しチルノに見せる。そのノートはある花に関する記録だった。土のことや天気のことや水のことや種のことなど、チルノでは到底分かりそうにないことが事細かに書かれている。
「記録は大事よ。それは何も花に限ったことではないの」
「こんな難しいこと書けないよ」
「これは花だから、そうしているだけよ。あなたが記録したいことが星なら、天気や雲の様子があれば良いんじゃないかしら?」
幽香はそう言って、別の引き出しから新しいノートと鉛筆をチルノに渡した。
チルノは幽香から沢山の物を授かり、自分も何か幽香に渡したくなった。しかし、チルノが渡せるものは何もなかった。今、チルノが渡せるものは幽香がもう持っているようなばかりだった。
「星を探しだしたら一緒に観に行こう?」
チルノはそう言う約束しかできなかった。幽香は微笑を浮かべたが、その口元には隠しきれない期待や喜びが浮かんでいた。
「それじゃ、ここで待っているわ」
チルノは幽香と約束し、指切りをして、外に出た。
外はむっとした暑さに満ちていたが、チルノの胸の中はそれより熱く、溶けてしまいそうだった。それでも夜空を飛び回ることができるのは、胸に輝く向日葵のお陰だろう。
チルノは自分のために星を探し出すのではなく、幽香のためにもあの星を探し出そうと思った。そうして、あの星の素晴らしさを幽香と話そう。夜空を駆けながら、最後にあの星を見た時はいつだろうかと思い出そうとした。しかし、チルノの記憶はしっかりとあの星のことを思い出せない。あったように思えばあり、ないように思えばない不安定な記憶。
夜の幻想郷は妖怪の時間であるが、彼等の目は地上を見ていることが多く、あの星を見ている者は妖怪よりも動物の方が多い。夜目であるミスティアにあの星のことを訊くことも考えたが、彼女はこの時間も赤提灯の下で酒を振る舞っているため、星のことなど分からないだろう。
明け方が近くなった頃、魔法の森で、枝に止まり空を見ているみみずくと目が合った。チルノはみみずくの隣に降り立ち、星について訊いてみたがみみずくは低い鳴き声を上げ、分からないと教えてくれた。落胆するチルノを気遣うように、見える星が少なくなっていると話してくれた。しかし、チルノとみみずくでは見える星の量に違いがある。みみずくのように夜目を持っておらず、遠く深くまで見渡せる視野もない。
みみずくがどのような星空を見ているのか気になったチルノは、みみずくに鉛筆を手渡し、ノートにどれくらい星が見えるのか書き記してもらうことにした。みみずくは足を器用に使い、ノートに丸を描き、描き終えると鳴く。曰く、明るさが違うことも書き込んでほしい、とのことだ。みみずくは自らの描いた丸を中を鉛筆で数度叩くと、短く二度三度と鳴く。ある丸では四度鳴き、またある丸では五度鳴く。チルノは鳴き声に応じ、数字を書き入れていく。
みみずくの協力によってできた星空は、東の方が他の方角と比べ白くなりがちだった。チルノは見比べるように数時間前の夜空を思い出したが、みみずくの見ている星空とは違う星空が広がっている。チルノの目に見える星空は東も西も南も星に満ち満ちている。
みみずくが言っていた見える星が少なっているということは、正しいのかもしれない。その見えない星の中に、あの星も含まれているのかもしれない。チルノは改めて、みみずくの描いた星空を見たが、その星空にはどこにも一という数字が書き込まれていない。チルノは東の空を見上げたが、もう夜が白んできて、東の空に明るい星は見えない。チルノの探すあの星は、他の星と比べて一際明るいことを思い出した。けれども、今、その星はどこにも見えない。
チルノはみみずくに礼を言い、魔法の森を抜け、また空を飛ぶ。みみずくの驚いたような短い鳴き声を背に、チルノは東へ向かう。あの星は太陽が出ていても、見える。東の空から太陽が覗きはじめたのか、チルノの肌はじりじりと敏感に陽の光を感知していた。熱さに負けてしまうように思えたが、幽香から貰った首飾りがやけに重くなっていることに気付いた。後ろの髪に何か引っ掛かっているようで、こそばゆい。
視線を下げると紫の花が開いているのが見える。朝顔だった。その朝顔を見てから、肌に刺さるようにあったじりじりとした痛みが引いていることに気付いた。全身が、幽香の家に居るように冷かな空気で包まれている。幽香の言った通りだった。この花があれば、昼間も星を探すことができる。
チルノの探しているあの星は朝日が昇っている時に見えることもある。夜では見えないのか昼にも見えないのか。あるいは昼には見えるのか。そういうことが分かるようになる。
東の空にあの星は見えない。何かの手掛かりを得ようと博麗神社に降り立ち、霊夢にあの星が見えないことを話した。
「どれよ」
「あの、明るい星」
「星なんてどれも明るいじゃない」
「違うよ、あの星が一番明るいんだよ」
霊夢は聞く耳を持たないようで、適当にあしらわれた。チルノはこれ以上、霊夢に話しても無駄だと思い、博麗神社を離れる。
頭の一部ではあの星のことを考えながら、この時間が気持ち良いことばかり考えている。枝の先で陽の光を受け、濃くなる緑の葉。人里の大通りには朝早くなのにもかかわらず、人間の姿がいくつか見える。その手には桶がある。寝苦しい夜が明け、朝になっても依然として暑苦しく、一風呂浴びて気分転換でもしようとしているのだろうか。
普段では見られない光景がチルノの目の前に広がっている。心が踊り、星のことを探そうとしながら大妖精達の腕を引き、この空の元、遊びたくなってくる。星を探すのだから、見る者は多い方が良い。チルノは湖の側に居る大妖精の手を引っ張ると、星を探しに行こう、と言った。しかしけれども、チルノの探している星は時が経っても見えない。大妖精の白い肌に赤みが帯びていて、連れ回してしまい悲しい気持ちになった。
日が最も高くなり、西の方へ傾きはじめた頃、チルノの心に陰りが見え始めた。この時間になるともう空には太陽しかない。太陽のあまりに激しい光の前に、自ら星が光ったところで見えない。星が光るのは、燃えているからだと誰かに教えてもらったことがある。こうしてチルノが見えない間に、星は懸命に燃えている。あの星もきっと同じだ。だから、早く見つけ出さければならない。
しかし、もうチルノだけでは難しいように思う。幽香がいれば、きっとチルノに何か適切な言葉をかけてくれることだろうか。チルノは欠伸を零し、幽香の家に戻ることにした。何も分からず、鼻の奥がつんと痛くなる。首のあたりも痒い。朝顔は役目を終えたようにしぼんでいる。向日葵の黒い種は所々抜け落ちている。
幽香の家に戻った時、いつもなら無言でも優しく出迎えてくれる幽香が珍しく声を上げた。
「……チルノ?」
チルノは首飾りを返そうと結び目を解き、幽香の差し出した時、自らの異変の気付き堪らず大声を上げた。腕が真っ黒になっている。腕だけではない、足も黒い。幽香から鏡を受け取り顔を見ると顔も黒い。首も黒い。首飾りをしていたところだけは白いままだ。
驚愕するチルノのを他所に、幽香は冷たい飲み物をテーブルに置くといつも通り微笑む。
「随分張り切ったのね」
チルノは冷たいジュースを飲みながら今日のことを話す。
「でも、何もなかったよ」
「何も?」
「あの一番明るい星は、見えないよ」
チルノは大きな窓から南の星空を眺めながら落胆する。幽香は落胆するチルノを叱るように少し棘のあることを口にする。
「一日で諦めては駄目よ。そんなすぐに諦めたら何もかも駄目よ。チルノ、相手は自然なのよ。もっと沢山観て、情報を集めて考えてないと」
「そんな器用なこと……」
「そうね、初めだったから難しかった。明日も明日も続ければ、きっとできるようになるわ」
「本当?」
「本当よ。真っ黒になるまで頑張ったんだから。必ず報われるわ」
次第に幽香の調子が柔らかいものになり、チルノは一日中走り回った疲れが全身に広がったようで、また欠伸を一つ零した。
「明日からまた頑張る。でも、今日はもう休むよ」
「おやすみなさい、良い夢を」
「おやすみ」

テーブルに伏せて眠ったチルノを抱きかかえ布団に寝させ、幽香も星のことを考えていた。一番明るいあの星とチルノは言っていた。幽香の知っている明るい星は明け方と暮れにしか見えない。チルノの言っている星は夜でも見えるらしい。とならば、幽香の知っているあの星のことではない。一体、チルノの見えなかった星とは一体何なのであろうか。星に詳しくない幽香にはこれ以上考えても分からない。
時が解決してくれると思い、幽香は一人、花畑に降り注ぐ流れ星に願いを込めた。〈了〉


 

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