「旅という装置」
旅って装置みたいだねとこの旅館に来る道中、彼女は言った。ようやくの連休の初日、仕事の疲れが波打つ顔で。私はその言葉に自分が知らない彼女の一面を見せられたような気がして、引っ掛かりを覚えた。夕食の時になっても、答えを求めるように彼女を見ていた。
「ん? あ、もしかして、いよいよ呑みたくなっちゃった?」
彼女の丸々とした黒い瞳と目が合う。
「あっ、いや、どんな味かなって気になって」
「思ったより、ずっと甘い。お米の甘さと香りが、すっと口に広がる感じ」
「甘いのね……」
「そう、残念ながら甘いやつ。辛口頼む?」
「いや、いい。ちょっと一口くれない?」
「……意外、どうしたの急に?」
「折角の旅だしね」
私の言葉を受けて、彼女は湯上がりで赤く染まった頬を柔らかく持ち上げる。広い和室は横に区切られるように長い木の机があり、女将さんが色々とお世話をしてくれた。一階の大広間ではなく、二階の部屋に運んでもらって良かった。静かで落ち着いていて、会話が楽しめる。
旅館が貸し出している赤い浴衣の袂がお皿や醤油差しに触れないように空いている手で絞り、お猪口を私の方へ滑らせる。硫黄の香りが彼女の髪や指先から漂う。
お猪口の中の微かな琥珀色には、私の気難しい顔が映し出されている。一口飲むと、彼女の言った通り、お米特有の甘さと香りが口の中を満たす。日本酒を、胸の中に留まる疑問と共に飲み込む。今の彼女は、私のよく知る彼女にすっかり戻っており、蒸し返したくない。
「……美味しい」
私は彼女に伝えるべき言葉とは別の言葉を口にした。彼女は、でしょと満足気に、細く丸みを帯びた肩を揺らす。その様子が道中と全然違って、何だか私まで嬉しくなる。
「ご機嫌ね」
「そりゃ肌に良い温泉に、美味しいご飯とお酒だよ?」
「そうね」
「あ、その言い方、物足りない感じね。まだ外の温泉は入れるんじゃない? 行く?」
「一階の内風呂で良くない? 外寒いし」
「あ、確かに。入ってないしね。行こうか」
「……お酒飲んだのに?」
「私はアイスでも食べておくから」
彼女に背中を押されて部屋を出る。廊下は照明が灯って明るいが、ひっそりとしている。
内風呂に私以外の人は見当たらなかった。少し熱く、肌にまとまわりつくお湯は、日々の疲れが洗い流されていく心地良さがある。洗い流された疲れの中から、旅って装置みたいだねという言葉が蘇る。
ロビーの一角にあるソファに腰掛け、彼女は文庫本に目を通していた。見慣れない横顔が、オレンジ色の丸い照明を受けて輝いている。傍らには食べかけのカップアイス。何か気になる箇所があるらしく、ペンを走らせている。
「小説? エッセイ?」
尋ねると彼女は勢いよく顔を上げた。湯船に浸かった私よりも赤い耳をしている。これは日記、と笑って教えてくれた。初めて知った驚きを隠すように柔らかく笑う。
「紙派なんだ」
「うん、こういうのは紙で記録したくて。温かみってやつ」
「そうなんだ……。デジタル派なんだよね私」
「折角だし書いてみたら? 読み返すと面白いよ」
彼女はページの一部を切り離してくれた。
「何かあれば書こうかな」
折角の旅だから、という言葉は重なった。
部屋に戻ると真ん中にあった長い机は端に動かされ、一組の布団が敷かれていた。彼女は目を輝かせ、布団へと飛び込んだ。白い足が、浴衣からはだけた。私は布団の横を通り過ぎ、広縁に置かれている一人掛けのソファに腰を下ろして、湯呑みにお茶を注ぐ。微睡みと酔いが回った甘い声が静寂を破る。
「次、どこに行きたいとかある?」
「……明日じゃなくて?」
「うん、次」
その問いが、不意に胸を刺した。私が求めているのは場所ではなく、彼女のまだ知らない顔だ。布団に視線を送ると、彼女はもう安心するほど見慣れた顔で寝息を立てていた。
私は今の気持ちを忘れないように、彼女から貰った日記帳の一部に書き綴った。文字を書く度に、私達を変えていく、旅という装置の音が確かに聞こえた。〈了〉