「これくらい、と箱の大きさを表すように」
喉がひりつき、唾を飲み込んだ時少し痛みが走った。会議室の効き過ぎている暖房のせいだと片付けた岡田は、プロジェクターに映るスライドを見ながら、自社の福利厚生や待遇について話す。手に汗をかいているのも、心臓が嫌に速い鼓動を続けているのも、暖房のせいだと片付けてしまっていいのだろうか。
頭の片隅で、本番の合同説明会は一ヶ月先なのだが、もう緊張と不安を覚えているのだろうか。こんなふうに気持ちを懐いてしまう原因は、すぐに思い出せる。
昨年の担当者から引き継ぎをした時、大きな変更はないと思っていた。が、大学のキャリアセンターに挨拶を伺った際、こう伝えられた。聴覚に障害を持つ学生がいる、と。
その時から、岡田に家に帰ってプレゼンのコツの動画を視聴するだけではなく、手話に関する動画や手話を鏡の前で練習するようになっている。しかし説明会の全てを手話でできるほど覚えられない。
岡田の口から、あ、え、えっと、という意味のない言葉が零れ落ちる。次にちゃんと言葉になったのは、謝罪だった。
「申しわけありません」
岡田は視線を少し落とし、プロジェクターとノートパソコンの画面を見比べる。どちらの画面にも、ワークライフバランスについてのスライドが表示されている。瞬間、頭の中にあった数々の言葉が形を失う。息を吸った胸が突然痛くなる。
「少し……少々お待ちください」
言い訳のような言葉を重ねて、落ち着こうと試みる。スライドを何枚か戻し、どこから説明をし直そうかと考える。ワークライフバランスの説明を始めたところなのだから、そこから話せばいいのだろうか。
「今、確認しております」
汗ばみ震える指先に、男の低い声がかかる。
「岡田」
「佐藤マネージャー?」
会議室の最も手前の席に座り、印刷した資料とプロジェクターに映るスライドを見比べていた佐藤が、真っ直ぐ岡田を見ている。普段は柔らかく穏やかな眉が、今では真っ直ぐと伸び随分とたくましく感じられる。
「言葉に詰まったりするのは全然いい。練習して慣れるしかないよ。皆、最初はそうだから。一旦、最後までやりきろう。大丈夫、できる。とりあえず、水でも少し飲んだら良い」
佐藤は最後に岡田を慰めるように笑った。岡田の説明を責め立てる調子ではない、柔らかで温かい言葉。
佐藤は岡田を落ち着かせるように歯を見せて笑いかけると、ペットボトルの封を切り、喉を潤す。
岡田は佐藤と同じように、水を飲む。締め付けれていた喉がゆるまったように思えた。こんがらがっていた思考が紐解かれていく。目を軽く閉じ、ゆっくりと息を吐く。
「続けます」
佐藤の傍らにはノートパソコンが置かれており、オンラインで岡田の説明を耳にしているチームメンバーがいる。
岡田は改めて短く息を吐き、説明に移る。ワークライフバランス、福利厚生、先輩社員達へのインタビュー……。
「――以上で説明は終わります。何か質問などございますか?」
岡田がメンバーに声をかけると、小さく佐藤が手を挙げる。佐藤は普段と変わらない穏やかな、低い声で問う。
「研修についてもう少し詳しく教えていただくことは可能でしょうか? OJTなど社内研修があるようですが、他にどのような研修があるのでしょうか?」
「ご質問ありがとうございます。新入社員の研修は入社後、約半年にわたって行われます。初めの一、二ヶ月では、会社のルールや基本的な業務知識を学んでいただきます。その後、実際の業務に少しずつ関わりながら、OJTを通じて実践的なスキルを身につけていきます。例えば、先輩社員と一緒にプロジェクトに参加し、実際の業務を体験することができます。具体的には、最初の数ヶ月はサポート的な役割を担い、徐々に責任ある業務を担当していく形です。ですので、しっかりとしたフォローがあるので、安心して成長できます。こちらで回答になりましたでしょうか?」
「はい。教えていただき、ありがとうございます」
「他にどなたか、質問などございますか?」
学生からされることを想定した質問はない。岡田は腕時計にも視線を落とす。十四時から始めた説明会の事前確認は、もう少しで十五時になろうとしている。本番で与えられている一時間の予定に収まっている。頬が柔らかく持ち上がりそうになった。
話は総評へと移る。ノートパソコン越しに、三年目の営業職である山田が声を上げる。
「説明を聞いて一点、気になったところがあります」
「何でしょうか?」
「岡田さん、もっとゆっくり話した方が良いです。といいますのも、オンラインで表示されている字幕が凄まじいラグが生じる部分があります。当日の会場は大学ですし、回線がうちみたいに速くて安定している可能性は低いと考えられます。ですので、ラグはもっと生じると念頭に置いて、ゆっくり丁寧に話した方が伝わります」
「貴重なご意見、ありがとうございます。当日までに改善いたします」
プロジェクターやノートパソコンを片付ける小さく丸まる岡田に、佐藤が労いの言葉をかける。
「お疲れ、悪くなかったよ。本番では一層焦らず慌てず、落ち着いて、ゆっくりと、な」
「アドバイス、ありがとうございます」
「ところで、キャリアセンターから例の学生さんに関する返事あった?」
佐藤の口から最も出てほしくなかった言葉が出てきて、岡田は心臓が大きく脈打つ。全身が一気に熱を帯び、汗が背中を伝う。
キャリアセンターとの連絡には、佐藤がCCで入っているため、確認しているはずだ。岡田は逃げるようにノートパソコンで新着メールを確認するが、キャリアセンターから新しい返事はない。
「……連絡はありません。学生と相談してから決めます、から進展してません」
「オンライン参加か大学の会場かも分かってない?」
「はい」
「そっか」
佐藤の眉間に、困ったと伝えるように皺が寄る。岡田も同じように眉を寄せ、苦々しく提案する。
「進捗、確認します?」
「一応、しておこう」
「こちらから、オンラインで参加してほしい、って打診します?」
「いや、そこまではしなくていい」
「……そうでしょうか?」
「向こうには向こうの事情や都合がある」
「ですが、この説明会は大学側からの依頼ですよ?」
「岡田」
「何でしょうか?」
「これから飲みに行くか?」
佐藤は頬を綻ばせ、右手で親指と人差し指で輪っかを作り、口元へ運ぶ。岡田はいつの間にか自分が熱くなっていることを指摘されたようで、耳が熱くなる。
「あ、え、あー……」
溜飲を下げたい気持ちはあったが、もしここで生ビールなどを飲んでしまえば、説明会当日までの連日連夜、飲んでしまいそうだった。酒に溺れた夜を過ごしたい気持ちは強い。しかし、岡田にそういう夜を過ごす余裕はあるのだろうか。
佐藤に気を遣わせてしまっているのが、岡田は分かった。佐藤はチームのリーダーとしてあるいはマネージャーとして、部下である岡田のストレスを軽減させようと努めている。上司の仕事の一環だからと考えることは簡単なことなのだが、だからといって飲みに行きます、と言いづらい。佐藤のエゴと岡田のエゴという二つのエゴは不器用にぶつかり合っている、そんな居心地の悪さが、ある。
岡田は小さく頭を下げる。
「申しわけありません、今日は……」
「全然良いよ、こっちこそ無理に誘ってしまって申しわけない」
「マネージャーが気にすることではありませんよ。ありがとうございます」
「まぁ当日は私も現場に居るので、フォローできる範囲でフォローするよ」
※
キャリアセンターから追加で連絡が送られてきたのは、説明会前日の夕方だった。現地参加である、という一文。岡田は、すぐさま座席を指定することが可能であれば、一番前に座ってほしい、と返事を送った。
説明会の会場は、普段であれば講義に使われているような講義室だった。岡田は壇上に上がる。革靴が床を叩く固い音が大きく響く。ずらっと並んだ白いテーブルに、これから一緒に仕事をするかもしれない大学生の男女が、皺一つないリクルートスーツに身を包んで静かに座っている。後ろの方に座る学生の表情はよく見えないが、視線は感じる。
一番前に並んでいるテーブルに座る学生を確認をする。女性は皆、示し合わせたように黒い髪に薄く化粧をしている。眼鏡をかけている者はいなかった。輝く瞳が、岡田を見ている。男性は男性で、黒い髪を短く切った爽やかそうな者が並んでいる。
この中にキャリアセンターが言っていた学生がいるのだろうが、岡田には分からない。目印らしいものがあればいいのだが、見当たらない。会場の片隅でオンラインで参加している学生の状況を確認している佐藤に視線を送ってみるが、佐藤は小さく首を横に振る。
岡田は腕時計に視線を落とす。時刻は十四時丁度になっていた。岡田は、その学生にだけ伝わるであろう意思疎通を試みる。右手をホールにいる学生全員に見えるように上げる。視線が一箇所に集中する。上げた手を口元に持っていき、指を指すように人差し指を動かす。
会場のどこからも岡田が望んでいる反応は見えない。ゆっくりと大きく口を動かし、丁寧に話し始める。
「それでは時間になりましたので、説明会を始めさせていただきます。本日、進行を努めさせていただきます岡田です。皆様、よろしくお願いいたします」
説明は滞りなく進む。練習の甲斐なのだろうか。岡田はスムーズに、落ち着いて話す。どういう人材を求めているのか、どういう企業であり、どのような業務があるのか……。
「――本日の説明は以上です。非常に長い時間になりましたが、最後までお聞きいただき、ありがとうございます」
会場を後にした岡田は自販機で缶コーヒーを買った。冷たい苦味が、全身に回り、心地良い。自販機の前で飲んでいると、後ろに並んでいる人影があった。岡田は済みません、と口にして、少し脇にずれる。リクルートスーツを着た、黒い髪を短く切っている女性だった。将来に対する期待と希望で輝く瞳に、岡田は見覚えがあった。
「本日はご参加していただき、ありがとうございます」
女性は岡田をじっと見上げている。彼女の視線は、岡田の口元にあった。
岡田は缶コーヒーをゴミ箱に捨てて、自由になった両手でテーブルを叩くような仕草を見せる。それから、手の甲を上に向けて、もう一方の手を真っ直ぐ下ろし、また上げる。その動きを初めて見た時、岡田は相撲取りの手刀を思い出していた。
女性は岡田の手の動きを見て、少し時間をおいて、頷く。そして、自分の気持ちを伝えるように、指を動かす。そうやって伝えることに慣れている人の動きだった。岡田は彼女の言葉を聞き逃さないように、目を見張る。
指の動きは岡田が想定していたよりずっと早かった。岡田は画像や動画で見続けていた文字を思い出す。カタカナの一部分や英単語の一部分などを模った、それ。岡田は彼女の指の動きを一つずつ、ゆっくりと頭の中で照らし合わせる。
こ、ち、ら、こ、そ。〈了〉
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