寂しさを紛らわすために

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「寂しさを紛らわすために」

土曜日の朝に起きるのは遅ければ遅いほど、良い。午後を回ってから起きるのもあり。日曜日も休みだから、そういう過ごし方をしても許される。そういう性分なので、長期休暇や三連休などにする旅行時のチェックアウトは遅ければ遅いほど良い。午前十時ではなく、十一時であれば良いし、正午とかでも良い。

でも、今回の三連休に生じた一泊二日の旅程を決めたのは、私ではなかった。この温泉旅館へのアクセスもプランも、全て同伴者に任せている。決算も同伴者のカードで決済で済ませているので、私は交通費と飲食代程度を用意するだけで良かった。気楽な旅だ。

「ねぇ、松井美代さん」

ふかふかで沈みやすい大きい白い枕に顔を突っ込んで、まだ夜の名残りに身を委ねていたら、二十四時間三百六十五日変わらない女性にしては少し低い、張りのある声がどこからか聞こえた。夢と呼ぶには随分と質感がある。

緑茶の香りが漂ってきて、更に夢と思いたかったけど、私は彼女に声をかけられる少し前から起きていたから、現実の可能性が高い。

私と斎藤春華は同期だけれど、私が支社で春華が本社配属のため、顔を合わせる機会は多くない。連絡先は入職時の研修期間の時に交換していたけど、配属先が違うとそんなに頻繁に連絡は取らない。研修でたまに顔を合わせた時に、同期のよしみで声をかけることはあるけど、いつもこの調子だ。ピンと張った糸みたい。

「もう起きた方が良いんじゃない?」

「嫌」

私が明確な意思を示すと、スイートの部屋に沈黙が落ちた。怒ったのか不機嫌になったのか知らないけど、春華の眉が寄ったような気がする。珍しく思って興味がそそられたけれど、どうせチェックアウトをして、最寄りの駅で別れるまで共に過ごすのだから、今見る必要はない。

「そろそろ朝ご飯、来るから」

「嘘はやめてほしい」

「本当よ」

「何時?」

「七時半」

「朝ご飯は?」

「だから、七時半」

枕から少し視線を動かし、ベッドボードに置かれている時計に目を遣る。

「……後、三十分ぐらいあるじゃない」

「だから、そろそろ起きた方が良いんじゃない?」

「向こうの和室に置いてもらうんでしょ?」

「そうね」

「まだ早い」

「一番遅くて半なんだけど?」

無駄な問答を続けている間に、意識が段々と目覚めてくる。調子が一定の声は眠気を誘うとどこかで聞いたことあったのだけれど、どうやら春華の声は違うらしい。

ベッドから出て朝の準備を済ませると、春華は和室の奥に備え付けられている広縁の椅子に腰掛けていた。ずっとそこにいたのだろう。足を組んで、ぼうっと中庭を眺めている。

白地に色々な漢字が達筆で書かれている、寿司屋で見かけるような湯呑みのような和服に、赤い腰紐を簡単に結んでいる。たまに見かける時はいつもちゃんとしたスーツ姿なので、こういう姿は新鮮だ。でも後は、たまに見かける時と変わらない。茶色がかったショートカットも、縦にも横にも大きく丸い目も、三日月のように綺麗な弧を描いている口元も普段通りだ。

斎藤春華はいつも斎藤春華でいて、求められる自分の像というのを明確に持っていて、それ通り動ける女性なのだろう。羨ましい、凄いという称賛と同じぐらい、大変そうだなと春華の苦労を勝手に想像する。求められる自分と本当の自分が違う可能性があったので。そして私は、いやきっと私達は、斎藤春華に求める像と本当の斎藤春華を同一視している。あたかも、俳優が演じた人物を同一視しているように。

「おはよう」

春華は微笑を浮かべたりすることはない。ちらっとこちらを見るだけ。素っ気ないといえば素っ気ないのだけれど、二人旅でこちらのことを気にかけずにマイペースでいてくれるのは、私としても助かる。助かるけど、部屋食なら事前に言っておいてほしかった。

「ええ、おはよう。内風呂入ってきたら? 良いお風呂だったわよ」

「長風呂派だから食後にゆっくり楽しませてもらうわ」

春華の前には、昨夜には和室のテーブルに置いてあった陶器の入れ物が置いてある。私は私で自分の分の緑茶を淹れながら、春華の前に戻る。

「ねぇ、素泊まりで良かったんじゃない?」

「嫌よ、朝ご飯がない温泉旅館なんて」

「私はそれでも全然良いけど?」

「私が嫌なのよ」

「この組み合わせでの旅行、しない方が良かったんじやない?」

「仕方ないじゃない。皆、忙しかったんだから」

「それで私……」

「含みのある言い方」

「ただ、不思議に思っただけ」

「不思議?」

「斉藤春華の旅行相手に、私が選ばれたのが不思議なだけ」

斎藤春華から連絡が来た時、珍しいと思った。用件を確認して重ねて珍しいと思った。でも確かに思い返してみると、他の同期から春華が云々ということを聞いたような聞いていなかったような気がする。

断る理由は作れたけれど、私は春華に興味があったので断る理由はなかった。気になったのだ、彼女がいつまで彼女のままでいるのか。昨夜駅前で合流してから、彼女はもう斎藤春華になっていて、そこからずっとその調子だ。私が彼女より早く起きていれば、その調子が切り替わる瞬間に出会えたのだろうか。

「だから」

「何度も言わなくても分かるわ。私以外の友達皆、先約あったんでしょ。キャンセルしても良かったけど、勿体ないから私になった」

「ごめんなさいね、余り物みたいに思わせちゃって」

「全然結構。ここ、前から行ってみたかったのよ。本館は行ったことあるんだけどね。ここの離れは、静かで落ち着いていて、良い温泉宿だわ。中庭も綺麗だし」

「そうね」

嘘を混ぜたけれど、春華は気にしていないようだった。旅館の名前に離れという名称がついていて、近くに本館もあるこの温泉宿は、建ち並んでいる他の宿と比べてグレードが高い。本館は、春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪化粧と四季折々の自然を取り入れた温泉宿をテーマにしているが、二階建ての離れはそういう自然や世間の騒々しさから距離を置いた静けさを宿泊者に届けてくれる。何か特別な日じゃないと本館も離れも行こうと思えない。

どうして春華がこの宿を予約して、急に誰かを誘わないといけなくなったとかそういう事情は、知らない。というか、あまり知りたくない。何となく想像はつくけど、憶測の域を出ないことを言葉にして、春華の機嫌や調子を損ねたくない。

人には二種類の見方がある。近くでじっくり見るか、遠くから眺めるように見るか。斎藤春華は間違えなく後者だ。春華自身それを自覚しているタイプだと思う。相手がそういうことを分かっていたのかは、知らない。

春華の目の下に薄いくまがあった。白い肌をしている人はこういう時、損だなと思う。見なかった振りをするには、少し難しい。

「ねぇ、もしかして、枕が変わったら寝られないタイプ?」

「ショートスリーパーなだけ」

「ショートスリーパーって存在しないらしいわよ」

「隣でよく知らない人が寝てると気になっちゃうタイプだから」

「じゃ、次はない?」

「松井美代さん」

「どうしたの、斉藤春華さん」

「旅行って、人のことを知るには良い装置らしいわよ」

飛び出しそうになった意外という言葉を飲み込んで、口元に微笑を浮かべる。

「光栄ね。私のことを知りたいなんて」

「不思議じゃない?」

「不思議を通り越して、びっくりしてるわ」

「とてもそんなふうに見えないけど?」

「まだ朝だから」

「エンジンがかかってない?」

「ええ、もうそれはそれは。もうちょっとしたら元気になると思う」

「昨日はそんなふうに見えなかったけど?」

「あのね、仕事終わり、金曜日の夜にそんな元気残ってるわけないでしょ」

そんなことを話していると、部屋がノックされる。昨夜聞いた仲居さんの声がした。春華の視線がドアへと流れるのと私が声を上げて障子の方へ駆け寄ったのは同時だった。

「――あ、はい。来たわね」

「来たわね」

春華の声が少し弾んだような気がした。視線を広縁に戻すも、春華の顔は普段と変わらず静かだ。

「嬉しそうじゃない」

「朝ご飯を嬉しくなれないことある?」

「え、ある」

「どういう生活してるわけ?」

「仕事よ仕事」

「そんなに真面目だった? 上手に手を抜く適当な同期って有名じゃない」

「え、何それ知らない」

本社で私がどういう評価を受けているのか、ちょっと気になる。というか、かなり気になる。手を抜くのは事実だし、適当なのも事実なので否定できないけど、それが本社の人間に伝わっているのはまずいのではないだろうか。いや、事実だからまずいも何もないかもしれないけど、兎に角、そう、良くない。

畳へと上がった仲居さんが私達の朝食を用意しながら、こちらは、と一品ずつ説明してくれる。

ご飯、この時期が旬の鰆の西京焼き、地元で採れたふきと春キャベツを使った味噌汁、温泉卵、南瓜の煮物、梅干し、デコポン……。

朝から凄い量だ。和食特有の柔らかい味噌の香りに包まれ、腹の虫が鳴る。

思えば、旅先で朝食を食べるというのは随分と久し振りなような気がした。大体スキップしているし、食べたとしても帰りの道中にパンとコーヒーを軽く食べるぐらいだ。

朝は洋食派なのよね、とはこの流れで言えない。洋食派というかコーヒーが欲しい。ぼんやりとして慌てがちな頭を冴えさせるアロマの香りと酸味を楽しみたい。

「さ、いただきましょうか」

和室へと向かう春華の背中を追いかける。スリッパが絨毯の上を滑る。

「え、あの、ちょっと、詳しく教えてもらっていい?」

「現実に帰るにはまだ早いわよ」

「現実に帰そうとしてるのは、そっちじゃない?」

 

「訊かれたことに答えただけだから」

「え、訊いてないけど?」

「そう? てっきり訊かれたと思った」

もしかしてもしかしてなんだけど、斎藤春華は良い性格をしている女なのかもしれない。私を感情的にさせる、ストレスを生じさせるという感覚とは少し違う。遠くで眺めている時には味わえないもの、それはきっと、彼女が会話というものを楽しんでいるのだろうと思わせる愉快さ。

でも、果たして本当に愉快さなのだろうかと思う。春華はただ、自分の心の内のどうにもならない部分を何とかして消化したいようにすら感じ取れる。旅行を人のことをよく知るための装置と言っていた彼女が、この旅行で本当に知りたかったのは、絶対に私じゃない。会社の同僚ではなく、もっと別の、近しい立場の人のことを、もっとよく知りたいと思ったに違いない。

私はこの一泊二日の旅行の中で、この旅行の本当の目的を知ることを話させる機会は三度はあった。駅前で合流した時、旬の魚介を使った豪勢な夕食と地酒が部屋に来た時、気持ち良く酔ってベッドに飛び込んだ時……。四度目は、きっと今かもしれない。

でも私はいずれも訊かなかった。興味がないといえば、嘘になる。別に春華が口を開けるのを待っていたわけでもない。ただそう、タイミングを見失っているだけだ。美味しい晩ご飯も朝ご飯も地酒も、綺麗な景色も、肌がすべすべになる温泉も、春華に事を訊くにはあまりに整い過ぎている。楽しい旅行を楽しくない旅行に変えてしまう権利を、私達は無言の内に互いに了解していて、だから不思議なまでに私達の間には距離がある。

心地良いと思わせる距離感を、私と春華は作っている。旅行は互いのことを知れる装置であるはずなのにも拘らず。

「美味しいわね」

「そうね。幸せだわ。朝は和食でも良いかもね」

炊き立てのご飯は艶々で甘味が感じられた。西京焼きと味噌汁の味噌は使っている仲居さんが行っていた通り、使っている味噌が違いが分かった。味噌汁の方が、ほっこりしている。

温泉卵を割る春華の手が止まった。

「洋食派?」

「あ、えっと、あー、そうですけど? それが何か? もっと言えば、ブッフェ形式で選びたい派ですけど?」

「良かったわ」

「はい? え、話、聞いてた?」

「ええ、勿論。私達、合わないわね」

世間話をするように、春華は言う。しかも、口元に三日月のような薄い微笑を引っ掛けたまま。この人、凄いな。いや私も確かに合わないんじゃない? みたいなことを言ったけれど、あれは寝起きのことだったからノーカン。

私もそして春華も互いのことを合わないと分かった。次は来ないことは確かだろう。そうと分かると心が軽くなった。訊きにくいことも訊けるような気がする。でも馬鹿正直に伝えてしまえば、帰りの車内が大変気まずくなるので言い方を考える必要がある。

「良かったわね、合わなくて」

「ええ、でも」

「でも?」

「そういう人との方が記憶に残る」

「……そうね。忘れる努力をしないといけないから」

「早く忘れたい?」

「もしこの旅を早く忘れたいと思うなら、趣味から旅行が消えるわね」

「良い思い出になりそうで良かったわ」

「そっちは? ちゃんとストレス解消できた?」

「ええ、お陰様で」

「だったら良かったわ」

朝食を終えても、チェックアウトまで一時間以上ある。私は食事前の宣言通り、お風呂へ向かう。部屋に付いているお風呂ではなく、一階にある露天風呂へ。今の春華には物理的に一人になる時間が必要な気がしたから。

必要な物を小さな鞄にまとめて、部屋を出ていこうとする。広縁から中庭を眺める春華に呼び止められる。

「ねぇ、松井美代さん」

私が起きた時もそこにいたし、食後だろうとそう景色は変わらないはずだ。目が痛くなるように眩しい緑を見て、春華は何を考えているのだろうか。

「どうしたの、斎藤春華さん?」

「改めて、ありがとう。程良く放っておいてくれて助かったわ」

「自分の機嫌ぐらい自分で取らないとね」

「一人よりずっと気楽に一人にさせてくれるのね」

「面倒事が嫌いなだけ」

「良い性格だと思うわ」

「褒めてる?」

「ええ、とっても」

「そ、良かったわ」

会話が途切れそうになって、続ける。そんな情報を共有する必要がないと分かっているけれど、今沈黙を生み出してしまうのは、まずいという意識が働いた。あれほど見てみたかった斎藤春華が斎藤春華でなくなる瞬間に遭遇してしまうのではないかと思うと、急に怖くなった。

「九時前には戻って来るから」

「……優しいのね」

「優しくなかったら、傷心旅行に付き合ってないわよ」

「ふふ、それもそうね。ありがとう」

「どういたしまして。そろそろお風呂に行ってきてもいい?」

「ええ、満足したわ」

私は部屋を出て、階段を降りて、一階のお風呂場へと向かう。従業員にチェックアウトの時間を聞けば、十時だと教えられた。

やはりチェックアウトは遅ければ遅いほど良い。〈了〉


 

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