「夜の縁」
夜の縁を、午前四時がなぞる。
井口大助は不意に目覚めた。突然起こされた時の嫌な感覚が、頭の片隅に沸き上がる。無意識に舌打ちが零れそうになり、同じ部屋で眠る恋人のことを思い出し慌てて飲み込む。ソファから音を立てないように身体を起こす。
エンジンの重たい稼働音が自分の下から聞こえ、ずっと身体の芯を響かせている。枕元に置いていたスマホは寝る前と変わらず、圏外を示している。大助達乗客を乗せているフェリーは、どこまで進んだのだろうか。昨日の日付が変わる頃に近い時間帯の出発し、今日の夜に目的地に着く予定である。
夜は長く、まだ眠れる時間帯だった。しかし、ここでもう一眠りしてしまえば、あの居心地の悪さをまた味わうことになるはずだ。二つ並んだベッドの片方で、今は安らかな表情で眠る彼女。枕元には読みかけの分厚い本が置いてある。坂本由香が目覚めてしまえば、苦い時間が蘇る。
大助は過去から逃げるように部屋を出る。船内は夜や暗い大海原を切り拓くように白を基調としていた。船内の廊下には青い絨毯が敷かれている。周りの乗客の眠りを妨げないように、大助の足音を絨毯が吸う。
大助はようやく口の中一杯に広がった鬱憤を吐き出すように舌を鳴らす。社会人として生活する大助の日常の中で、こういうふうに目覚めることは度々ある。もっと早い時間に目覚めることもあれば、もう少し遅い時間に目覚めることもある。いずれの時も、今のような不機嫌さを露骨に顔へと出すことはない。諦めに似たようなものを味わいながら、二度寝を試みたり、もう起きておこうと決心をする。
大助がこうも不機嫌になってしまっているのは、ひとえに由香との会話によるものであった。午前四時が引き金となった由香との会話が。
今年の夏のある日、二人は偶然同じ日に会社の飲み会があった。同棲している家に帰った時に、由香はもう寝息を立てている。彼女を邪魔しないように眠った。喉の渇きを覚え、大助はすぐに目覚めた。二度寝をしても良かったのだが、夏季休業を翌日に控えた大助はベッドから出た。学生時代の、夏休みや春休みの前日に味わう、あの伸び伸びとした心持ちがなかったといえば、きっと嘘になる。
リビングに顔を出すと、先に寝ていた由香の姿があった。スマホを眺めていた顔を上げ、大助を見る。何か読み物をしている途中だったのだろうか。寝巻きのままだったが、これからもう起きると宣言しているかのようにアイスコーヒーを口にしている。飲む? と訊かれ、水を飲んでから、飲むと答えた。
まだ街全体が眠っている時間帯だった。由香は唐突に、午前四時は朝だと言い切った。大助には、分からない感覚だった。どうして? と訊くことはできたのだが、そういう感覚を持っているのだろうと判断して深く訊かなかった。デザイン会社でクリエイターとして働く彼女には、大助のような普通の社会人とは違う感覚があるのだろう。
大助は午前四時を夜だと思っていたので、微かに同意するように、そうなんだと反応を返した。由香は眉を上げ、なにそれと群青色の空を裂くように言った。
あの問答の後から、二人の関係は良好ではない。大助は恋人と距離を覚えるようになった。普通に接しているのだけれど、何か壁というか膜というか、それまでにはないものが由香との間にある。
関係の修復を試みようとした。
大助が一歩歩み寄ると、由香が一歩あるいは二歩と離れていく。
時が解決してくれるだろうと大助は心のどこかで淡い期待を懐いていた。時間が流れれば、一日、また一日と過ぎていけば、それまで通りの二人に戻れるだろうと思っていた。その年の秋の上旬、まだ全然秋と呼ぶには難しい残暑の厳しい頃に予定しているフェリーでの旅行はキャンセルしなかった。
そういう話題を口にしようとした時には、もうフェリーもホテルも帰りの飛行機も、それなりのキャンセル料がかかってしまう。大助は腹を括り、由香と共にフェリーに乗船した。由香から反対の言葉はなかった。
大助はフェリーの中を歩き回ったが、どこにも人影らしい人影は見えない。売店の照明は落ちている。船外へと通じる扉は安全のため、日の出の頃までは閉ざされている。大浴場の扉には本日の営業は終了しました、と書かれた張り紙がある。食堂の扉も閉ざされている。午前六時から朝食のバイキングが始まる、と張り紙がされている。食堂が閉まっていても営業していたカフェは今ではもう営業を終えており、丸いテーブルと椅子が開放されているだけだった。
一匹の蛾のように光を求めて辿り着いたゲームコーナーは不必要なまでに明るい。大助には、あまり眩しかった。レトロゲームもスロットもしないため、全然興味がそそられない。大助は足早にゲームコーナーを去り、次の光を求めて足を運んだのは自動販売機の前だった。アルコールや飲み物が売っている隣に、アイスが売っている自販機が立っており、その隣にカップ麺が売っている自販機がある。腹の虫が鳴る。
朝食のラストオーダーが八時半であるため、今から夜食を食べても全然食べられるだろう。
すぐにカップ麺と飲み物を買い、熱湯を注ぎ、カフェ席に腰掛ける。丸い窓から覗ける外は暗く、船内にいる大助を映すだけだった。三分が経った後、フォークで麺をすする。ずるずるという音が、広い船内に広がる。
午前四時が朝だという由香の感覚も、夜だと思っている大助の感覚も、どちらも適切ではないような気がしている。夏と冬、太陽が昇ってくる時間帯によって変わってくるものなのではないだろうか。つまり、夏は朝に近く、冬は夜に近しい。由香が朝だと言った時、そういうことを答えれば、今のような関係に陥ることはなかったのではないだろうか。
しかし、と大助は思う。ならば果たして、この胸に芽生えている気持ちは何なのだろうか。大助にとって、午前四時は夜である。夏であろうと冬であろうと、午前四時は夜である。これはきっと、大助が朝の八時半から働く社会人だからだろう。出勤するまでの時間帯は夜だと解釈している。つまり、生活リズムで変わる。
生活リズムという観点から考えると、由香も大助もそこまで大きく変わらない生活を送っている。由香も夜だと解釈するのが自然なように思える。けれども、由香は午前四時を朝だと解釈している。
軽い足音が、船内の奥から近づいてくる。大助はカップ麺を食べながら、音のする方に視線を投げた。
「あ」
「……あ」
部屋で寝ているはずの、由香がそこに立っていた。普段からルームウェアとして使っているグレーのサマースウェットが、小さな身体を包んでいる。まだしっかりと起きていない顔を隠すように黒いキャップを少し深く被り、丸い影の中で黒縁の眼鏡が光った。大助と同い年なのにいくつか下に見られる丸い童顔は、今では大人びているように見える。由香の小さな手が、大助の隣を指す。
「隣、いい?」
普段はそんなことを言わない彼女に、大助はどういう言葉をかければいいのか分からなかった。無言を肯定だと捉えた由香が、腰掛ける。大助はテーブルに置いていたペットボトルの水を彼女の方へ滑らせる。
「いや、いい。買ったし」
由香はスウェットの前ポケットから、アイスコーヒーのペットボトルを取り出しテーブルに置く。
短い会話の後に訪れたのは、大助が麺をすすったり、スープを飲んだりする音だけだった。
苦々しい雰囲気が漂うことはないが、大助は気まずさを覚えている。会話を切り出すのは、こちらのような気がしてならない。午前四時は夜である、と言うのは、大助にしかできない役目だった。
「俺は……」
大助の手元に、由香の咎めるような細い視線が落ちている。
「朝ご飯、六時からだけど大丈夫なの?」
気の抜けた声で、大助は応じる。
「え? あ? あぁ、うん。ちょっとずらすし大丈夫」
「寝る気?」
空になった容器を近くのゴミ箱に捨てて、大助は元の席へと戻る。
「いや、全然。朝食食べてからは寝ようかなって考えている」
「寝てばかりじゃない?」
「フェリーってそういうもんじゃない?」
「本気で言ってる?」
「結構、マジで言ってる」
「そっか」
「スマホ使えないし、大手を振ってゆっくりできるのは良くない?」
由香の眉間に皺が寄る。溜め息がテーブルの端に落ちた。
「私、苦手なんだよねぇ、それ」
「うん、知ってる」
「あー、だから?」
「うん、まぁ、そう」
大助は照れ臭かったが認めることにした。由香は戸惑いを隠そうとして、大助の腕を軽く拳で叩く。
「先に言ってくれれば良かったじゃん?」
「言ったら来ないと思って……」
「彼氏との旅行断るほどじゃないよ」
「本当?」
大助は不安は綺麗な音となっていた。由香の丸い瞳が大きく開かれる。由香が何かを口にするよりも早く、大助はあの時言えなかった言葉を口にする。今しかないと思った。はっきりと、丁寧に、伝える。
「俺は、午前四時は夜だと思う」
由香の頬がぎゅっと何かを堪えるように持ち上がり、口元に赤い三日月が出来上がる。
「そうなんだ」
大助がそう言ったように、由香もそう答えた。続きの言葉を全て奪われたような拒絶が、あった。大助は困ったように笑い、短く息を吐いた。あの時言えなかった謝罪の言葉を口にする。
「ごめん」
由香は顔の前で小さく手を振る。
「え、いや、いいよ。別に。うん、私も大人気なかったし」
あの夜の続きを取り戻すように、大助は問う。
「由香はどうして朝だと思ってる?」
「言いたくない」
「いや、そこは答えてくれる流れじゃない?」
「嫌だよ」
大助は自分の解釈を口にする。
「俺が夜だと思っている理由は……」
「あ、ちょっと待たない?」
「どうして?」
由香の頬が赤くなる。
「白面過ぎる」
「はい? え? 買ってこようか?」
「販売してないでしょ」
「え、じゃ……」
「私、大助のそういう物覚えが良いところ、好きじゃない」
「済みませんねぇ、仕事柄、人のことは色々と覚えておかないといけないので」
「彼女にやることじゃなくない?」
「そう?」
「そう思う」
「そっか……。ところで話、戻していい?」
「言いたいんだね、いいよ。でも、だからといって、私が答えるとは思わないでね」
「うん、分かった」
「それでどうして大助は夜だと思うの?」
「生活リズムの都合」
「え、それだけ?」
「うん」
「そっか」
何かを納得したように、由香が頷く。後は沈黙が続く。波音に紛れるように、小さな声が落ちた。
「心細い時間帯だからさ、早く朝になってくれたらって願いたいだけ」〈了〉
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