「十八」
真っ白な壁に取り付けられた丸い時計が、刻一刻と動く淡々とした音が破られる。
「私は、被告を死刑にするべきだと思います」
窓の向こうには、陽の光や周りの喧騒を遮るように背の高く、真っ赤に染まった楓の木々が植っている。老若男女問わず九人が集まった会議室は、先程までの熱を奪い去るかのように冷たい。八人の視線が、自分の意見を言い切った彼女に集中した。彼女は八人のそれぞれの視線に、何か言いたいことでもありましたらどうぞ、という勝ち気な視線を投げ返している。
長谷川穂高は、自分と同じように裁判員制度で選ばれた彼女の発言を聞いて、それはまだ、と言いたくなったが、喉が張り付いて何も言えなかった。唾を飲み込むと微かな痛みが走った。背中や脇から汗が垂れる。彼女は他の裁判員や裁判官を伺うように、ぐるりと長方形の長机の向こうを見渡す。パイプ椅子に座る残りの八名は、皆誰かが口を開けるのを待つかのように口を閉ざしている。
「永山基準というものがありますので、それに則って考えてからの判決はどうでしょうか?」
沈黙を破ったのは、九人のうち、裁判員ではない三人の裁判官。そのうちの一人が口を開いた。柔らかであるが厳しい声音。長谷川は永山基準という聞き慣れない基準について尋ねようと思ったが、それよりも早く八人の中の誰かが声を上げる。
「永山、基準……?」
「量刑判断の基準となるものです。昔の事件で、永山則夫被告が死刑判決をされたためにこう呼ばれてます」
「それで、その永山基準というのは、何を基準に?」
「年齢、前科、犯行動機などの九項目を確認し、永山則夫の時と比較した時にどうか……つまり、死刑の判決を下すかを考えます」
基準について話し合う流れに逆らうように、固い声が上がる。
「僕も死刑判決にした方が良いと思います。前科のない十八歳の少年が、一人暮らしの生活難から逃れるためにある夜、見ず知らずの家に突発的に侵入。そこに住んでいた男女二名を刃物で何度も刺して殺害。現金などを奪って逃走。逃走中に出会った男性も重傷の怪我。こんな事件、その基準を用いるまでもなく、死刑で良いかと思います。再犯の危険性もありそうですし」
「その、あの、ちょっと急じゃありませんか? 私達六人は法律の専門家じゃないですし……確か、十八歳とか十九歳の被告って、特定少年って呼ばれるんですよね? 家庭裁判所じゃ扱いきれなくて、刑事裁判に回されてる……そんな重い事件だからこそ、慎重に考えるべきじゃないですか? 前科の有無とか年齢とか、他にもいろいろあるんですよね?」
助けを求めるような視線が、裁判官に向けられる。
「犯行の罪質、動機の悪質性、犯行態様、結果の重大性、遺族の処罰感情、社会的影響、犯人の年齢、前科の有無、犯行後の情状という九つの項目があります」
長谷川は腕を組んだまま、眉間に皺を寄せる。胸の辺りが騒々しくなる。九つの項目を考えた時、自分が裁判員として選ばれた事件の凶悪性を、嫌でも思い出される。
「遺族は死刑を望んでいるんでしょうか?」
誰かの手が長机へと伸び、裁判の時に提出された資料を確認する。遺族の気持ちが読み上げられる。
「どうすればいいのか分からない。そっとしておいてほしい」
「深い悲しみや衝撃の渦中に居られるのではないでしょうか?」
「だから、私達が遺族の代わりに死刑と言い渡して良い、と? 遺族もそれを望んでいるだろう、と想像して?」
「そういうことを言いたいわけではありません」
「裁判官、その永山基準の社会的影響というのは、この裁判で死刑判決を出した、ということも含まれるでしょうか?」
裁判官はゆったりと否定した。
「それは含まれません」
「つまり、ここでの社会的影響は、事件自体がどれほどの社会的影響を有しているか、ですか?」
「その解釈で合っています」
「社会的影響は凄いですよ、何回テレビで見たことか……」
「未成年や若者の強盗は、ここ最近急速に増えてますし、強盗殺人を犯した者がどうなるのか、という基準を社会が持つ必要があるんじゃないでしょうか?」
「それは被告を見せしめにすることになりませんか?」
「今後、強盗殺人を犯した者は死刑。それはあまりにも短絡的じゃありませんか?」
「ここでちゃんと判決を出さないと……」
「死刑以外にも、ちゃんとした判決はあるんじゃないですか?」
「法廷での被告の表情をご覧になりましたか? 無表情でどこか惚けたような、全然反省していませんでした」
長谷川は、法廷から見下ろした被告の表情を思い出す。確かにその言葉通り、無表情で全然反省していないように見て取れる。しかし、長谷川の脳裏には、被告の目の色が全然違う色として焼き付いている。ぼんやりと、まるで自分と関係ないことが進展していく様子を見守っている、あの黒い瞳。自分と世間との間に薄いベールがあると感じている、あの瞳。深い水底から遠い世界を眺めているだけであり、目の前の出来事を雑音や騒音としか捉えられていない表情。
長谷川は近くに座る裁判官に、そっと尋ねる。
「無期懲役では、いけないのでしょうか?」
「無期懲役ではいけないということはありません。判決を下すのは我々ですので、裁判官三名、裁判員六名の合計九名で多数決を採り、裁判官一名以上が含まれた数が多い方の判決を考慮し、判決文を作成します」
長谷川と同じように静観を続けていた裁判長が声を上げる。頬や額に刻まれた数々の深い皺が、動く。
「判決は、死刑か無期懲役のどちらにするかになりそうですね。挙手による多数決を採ります。各々の考えがどちらに属するのか分かっておいた方が良いでしょう」
裁判長の有無を言わせない発言に、場の全員が従った。
「それでは、死刑判決が妥当だと思う方、挙手をお願いします」
次々と天を指すように伸びる白い手もあれば、まだどうすればいいのか悩んでいるかのように控えめに伸ばされる白い手もある。
「無期懲役が妥当だと思う方、挙手をお願いします」
長谷川は手を挙げた。裁判員は誰も手を挙げてなかった。しかし、裁判官と裁判長も手を挙げていた。裁判員の誰かの安堵したような小さな声が、会議室の長いテーブルに落ちる。
「……死刑判決」
長谷川はその現実を受け入れられないようにうわ言のように呟く。
「もう、少し……」
裁判員の厳しい声が、長谷川の胸を刺す。
「もし少し、何でしょうか?」
震える口の端に力を込めて訊く。
「もう、少しだけ、……考えませんか?」
「考えたじゃありませんか。考えた結果、死刑判決が妥当だと思う方が多かった」
長谷川はまるで自分の判断が間違っているかのように責められ、心臓が早い鼓動を繰り返す。
「あまりに早いように思うんです」
「早さから考えられていないというわけではないと思いますが?」
「いや、そう言いたいわけではないんです。なんて言えばいいんでしょうか……。今ここで死刑判決が妥当だと判断したということは、私達は今、一人の少年を死んでもいい、そう判断したわけですよね?」
「身勝手な理由で二人の男女を殺害し、金品を奪って逃走して、一人に重傷を負わせている。反省の色もない。当然ではないでしょうか?」
長谷川の脳裏に、少年の瞳が蘇る。自分とは関係のないところで事が進展していくのを見るしかできない、あの無気力を味わっている瞳。
「反省……。あの、まだ、自分の行ったことを冷静に受け止められていない可能性はありませんか?」
「だからなんです?」
「高校卒業をして間もなく就職するも、職場に馴染めず無断欠勤が多くなり、一年を経たずに退職。被告の自宅には物らしい物はなく、貯金もない。父親しかおらず、多忙で放任主義的な、唯一の家族を頼ることもできず、どう生きればいいのか分からない。その果ての犯行。学校や職場では真面目だった被告が、です」
「真面目だったら、こんな事件に起こしませんよ」
「高校生から社会人へとステージが変わって、環境の変化に追いつけなかった可能性はありませんか?」
「高校生の頃からアルバイトとして働いていた飲食店の正社員ですよ」
平行線を辿るかのような議論に釘を差すように、裁判官が長谷川に確認する。
「つまり、死刑判決が妥当だと決める前に、被告のことを考えたい、と?」
「死刑判決でも良いかもしれませんが、ですが、こんなにあっさりと被告の未来を決めて良いんでしょうか?」
「被告は二名の未来を奪ってますが?」
「それは否定できません。ですがだからといって、私達が被告の未来を奪っていい理由にはならないと思います」
裁判員同士の論争を聞いていた裁判官がそっと声を上げる。
「あなたは私達に被告の何を考えてほしいのでしょうか?」
真正面から問われ、長谷川は答えに窮した。長谷川が話すのを待つように、会議室は重たい沈黙に満たされる。
裁判長が長谷川に助け舟を出すかのように、自らの意見を明らかにする。
「私が無期懲役に挙手したのは、この判例が一つの基準になるかもしれない可能性を有すると考えているからです。裁判官と裁判長が話し合い文書を作成するものとは違い、裁判員制度で選ばれた六名を含んだ判決は、民意を含んだ判決となるでしょう。それがどういうことなのか考えたく、無期懲役に挙手しました」
「私は裁判長のような理由ではありませんが、今回の評議が、今後の基準になるかもしれない予感を覚え、無期懲役に挙手しました。私達が先程、永山基準を扱ったように、十八歳という特定少年による強盗殺人の基準として扱われるのではないかと考えました」
長谷川は二人の意見を聞き、正直な気持ちを口にする。
「私はただ、怖いです。こんな簡単に被告の死刑判決が妥当だと思っていいんでしょうか……? 多数決だから、裁判だから……」
同情に満ちたような空気を破裂させるような声が上がる。死刑が妥当だと思っていた裁判員が眉間に皺を寄せている。
「社会は親じゃないんですよ。そういうことは家で教えるべきです」
「仰る通りです。ですが、片親だったという家庭環境を考えますと、それも難しかったと見て取れるのではないでしょうか?」
「そうかもしれませんが、死刑が執行されるまで、被告が反省すれば良いことじゃないですか。時間は沢山あるでしょう?」
裁判長が口を開ける。
「もう一度、多数決を採ります。今度は挙手ではなく、無記名の投票とします。死刑が妥当だと思うか無期懲役が妥当だと思うか、紙に書いてください。多い方で文書を作成します」
※
ある日、朝食を終えて新聞を読んでいた長谷川の目に、とある記事が飛び込んできた。
――一昨年、市内で発生した強盗殺人事件で、当時十八歳だった被告に対し裁判員裁判で死刑判決が下された件について、被告側弁護人は二十八日、判決を不当として高裁に控訴したと明らかにした。
判決は今月中旬、地方裁判所で言い渡された。被告は高校卒業後、飲食店に正社員として就職するも、長続きせず退職。生活に困窮し、夜間に民家へ侵入。住人の男女二名を刃物で刺して死亡させ、現金を奪って逃走する途中、通行人一名にも重傷を負わせたとされる。
裁判では犯行の悪質性や社会的影響が争点となり、量刑判断に際しては「永山基準」に照らして評議が行われた。判決は裁判官三名と裁判員六名の合議により、死刑が妥当との結論に至った。
これに対し、弁護人は「当時十八歳という年齢や家庭環境、精神的未成熟さが十分に考慮されるべきであり、社会全体で抱える問題を個人に帰すことには疑問を抱かざるを得ない。被告の生育歴や心情に向き合い、なお議論の余地があると考え、控訴に踏み切った」と述べた。――〈了〉
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