割れた唇

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「割れた唇」


 
 十八歳の夏を迎えても、コンビニでお酒も煙草も買えることはなかった。選挙権とか結婚の権利も与えられたらしいけれど、それを行使する機会はまだない。つまりは、十七歳の時と何も変わることはない。

 図書室のカウンターにJ字型のテーブルがある。その内側に置かれている丸椅子に腰掛け、図書委員としての役目を果たす。テストの頃には何だかんだと本を借りたり返したりする人がいるけれど、普段は全然そんな生徒は訪れない。たまに本を読みにくるが人いるぐらいだ。冷房の効いた室内で、蝉の甲高い鳴き声を聞きながら大学受験の勉強をするには、中々に良い時間だったりする。家とかで勉強した方が良いのかもしれないけど、こういう何かの合間にちょっと、誰にもバレないように勉強するっていうのは、あたしの性に合っているような気がした。サボるのに適切な言い訳として、使える。

 あたし達の高校生活は、当時となっては未知のウイルスによる感染症と共に始まった。パンデミック、外出自粛、ロックダウン、ソーシャルディスタンス、一斉休校、オンライン授業……そういう今までにないものが生活の色々なところで生じた。このマスクだって、その一環だった。今ではマスクをつけることは義務とされているわけではないけれど、家以外ではつけるのが自然になった。でもメイクとかそこまで気を使う必要がなくなる楽さもあった。あたしはそんなふうに思っているけれど、看護師としてあたしより先に社会に出ていたお姉ちゃんは、凄く大変な思いをしている。ああいうふうにはなれない、と思った。身を粉にして働く、というのはああいうことなのだろう。

 生活に変化はあったけれど、大学受験が高校三年生のあたし達に控えていることは変わらなかった。書類選考、面接、小論文、筆記試験とあたし達に求められるものも、それまでの大学受験と何一つ変わらなかった。

「あの、中村さん、一ついいですか?」

 男子生徒の低い声。

 カウンターの少し離れたところで参考書を読んでいる石田が恐縮そうに片手を上げる。彼もあたしと同じようにマスクをしている。風邪の時のように枯れた声をしていないのに。

「どうしたの?」

「ここの設問なんですが」

 と、石田は椅子と共に、あたしの側にやってくる。普段は学ランなのに、この時期になると夏服の、襟のある白いシャツ一枚を着ている。すらっと背が高くて、日に焼けていない肌が目立つ。黒い髪を中心で左右に分けて、額や目元にかからないようにしているけれど、古めかしい銀色の眼鏡のフレームに毛先が触れている。鮮やかな目鼻立ちに、しゅっとした細長い顔と涼しげな目元が手伝って、眉目秀麗って言葉が似合う。おまけにあまり喋らないタイプ。

 三年連続同じクラスで、三年連続図書委員を共にしているという謎の接点があたしと石田にはあって、石田の好みとか他の女子から相談されることが時々ある。あたしも知らない。そんな次第で、大学生の彼女がいる、なんて噂が上がったことがある。

 あたしに見えるように石田は参考書を広げる。石田の白く、細長い指が、とある設問を指す。傍線部に対して適切な答えを以下から選びなさい、と四つの文章が並んでいる。本文に目を移すと、誰が書いたのか分からない随筆が続いている。あたしは手に持っていたシャーペンで、三つ目の選択肢を指す。

「三つ目かな、これ」

「理由をお聞かせ願いますか?」

「お聞かせって……あ、いや、本文の流れを読んだらそうなった」

 言いながら、これは多分石田の求めているものとは遠いと思った。石田の反応は、あたしを傷つけないように配慮しながら、でも明確にあたしの心に刺さる、はぁ……というものだった。

 あたしは国語と英語と世界史ができて、数学や物理ができない。石田は数学と英語と物理ができて、国語や世界史ができない。あたしは私大の文系というふわっとした進路先なのに対して、石田は一年の夏休みを終わった頃から進路先は私大の理工学部に絞っている。数学と英語と物理という三つの得意科目を駆使して、合格する気らしい。

 随分とちゃんと将来設計をしているんだな、と尊敬する。十八歳で成人を迎えることも、戸惑うことなく冷静に受け入れて、選挙なんか行ったりしているのだろうか。何だか大学在学中に何をするのかとかも決めてそうな気配がある。留学とかして、見聞を広げるのだろう。そうして、大学を卒業して、グローバルに活躍する石田の将来を勝手に想像する。似合うと思うけど、あたしの想像する石田は今の頃と線が変わらないのが気に食わない。

 想像の世界から帰ってきて、石田の参考書が、現代文なことに触れる。多分それは、あたしとかに必要なやつだ。

「……それ、やる必要ある? 推薦とか受ける気?」

 石田は癖のような、しっかりとした敬語で答える。

「受けられません」

「あ、別の人がいく感じ?」

「いえ、成績が……」

「え?」

「古文や漢文、それに地歴を勉強してきませんでしたので」

 勉強してこなくても、それなりの点は取れるのではないだろうか。あたしの数学のように。化学? 物理? そういうのは世界史の中で少し紹介される程度のもので、あたしのような文系が勉強する科目じゃない。

「え?」

「必要性を感じられませんでした。……後悔しています」

「うん、それは後悔すると思う」

「僕もそう思います」

 石田の眉が曇る。

 この男は、寡黙で顔が整っていて、口を開けば同い年のあたしにでも敬語を使うようなタイプだ。あたしも話すまでは他の女子同様に、天才とか秀才とか、つまりは自分達は頭の構造が違うタイプの賢い人間だと思っていた。でも、こうやって一緒に過ごす時間や勉強をしている姿を見ると、あんまり賢くないことが分かった。あんまりっていうか、はっきり言ってしまえば馬鹿だ。テストが近くなると国語の補習に出席しないといけませんので、とあたしに図書委員の役目を一任させることが何度もあった。

 でもまさか、推薦されないほどの成績だなんて思いもしなかった。面接と小論文が壊滅的に苦手で推薦を避けたあたしとは大違いだ。

「成績、そんなに悪かった?」

「Cです」

「え、マジ?」

「はい」

「もったいない」

 推薦の時、学習成績が求められることがある。五から四・三がAで、四・二から三・五がBといったようにあたし達の三年間の勉強具合が五段階で評価される。Cっていうのは、真ん中だ。あたしと変わらないところにいるなんて思いもしなかった。

「ですので、これは本当に危ないと危機感を懐きました」

「それで、今、勉強中ってわけ?」

「はい、その通りです」

「高三の夏に?」

「中村さん」

 不意に怒気を含んだような棘を感じさせる調子で名前を呼ばれて、驚いた。マスクの中で頬が硬くなり、きゅっとあたしの顔が鋭くなる。

「なによ、急に」

「僕は別に国語の勉強だけをしているわけではありません」

 それはそうでしょ、という言葉が喉元から飛び出しそうになるのを堪える。

「……うん?」

「ちゃんと英語も数学も、それに物理もやっています」

「石田」

「はい、何でしょうか?」

「知ってる」

「良かったです。それにですね、中村さん、これは何も受験勉強のためだけではありません」

「はい?」

 意外な言葉が返ってきて、また驚いてしまった。石田と話すと自分のペースが乱されるのがよくある。石田は全然自分のペースで話している。多分この男には、他人のペースを気にするというのが、ないのだと思う。

「何事にも、国語は必要というわけです」

「ごめん石田、分かるように喋ってもらっていい?」

「失礼しました」

 石田は頭を下げてから、少し考えるように細っそりとした顎に手を添える。

「問題文も答案も面接も小論文も、……僕が何を考え、何を思うのかも日本語を使っています。ここまでは、良いですか?」

「うん、大丈夫」

「良かったです。それでですね、日本語の読み書きが不十分ですと、僕が考えていること、あるいは中村さんが話したことを理解することが難しいことがあります」

「あー、つまりは、コミュニュケーションのために学んでるってことね。はいはい、分かった分かった」

「それも少し、違います」

「……少し?」

「はい。中村さんは、大人というものをどのような人だと考えますか?」

「あたし、そういうのパス」

 苦い顔でマスクの前で片手を面倒臭そうに振る。石田は細長い目を心持ち大きく開かせる。

「パス、ですか」

「うん。十八でも二十歳でも、変わらないじゃん?」

 この国は今は十八歳で成人だけれど、少し前まで二十歳を迎えれば成人になれた。もっと昔は十二歳やそこらへんで成人になれたらしい。年齢がキーとなっているだけで、自分の能力を周囲に認めてもらうようなことはない。バンジージャンプが成人の儀礼として使われる国もあるらしい。ライオンやサメと戦って、勝利すれば成人として認められる国もあるらしい。

 そういうことを考えると、あたし達が成人を迎えるのは何も特別なことはない。十八歳で成人を迎えたところで、何かが解禁されるわけではない。一人暮らしとかクレジットカードの契約とかそういうのを親の同意がなくても契約できるようになるらしいけれど、あたしはまだそういうことをしたことがない。お父さんやお母さんと一緒に暮らして、バイトの稼ぎで生活できている。あたしはそれよりも、お酒とか煙草とかギャンブルの解禁とか大型や中型免許の取得が可能になるとか日常の選択肢が増える二十歳の方が楽しみだ。

「僕は、変わると思っています。自分のことを自分で責任を取れるようになりましたので。自分の言ったことに自分で責任を取るためには、自分がどういうことを言おうとしているのか学ぶ必要があります」

 石田の調子は、至って真面目だった。

「真面目だねぇ」

「これはまだ他の人には話していないことですが、僕は卒業すれば地元を離れて、一人暮らしをします。一人で暮らすといっても何も海を超えてとかそういうわけじゃありません」

 石田とあたしの縁は、高校を卒業すれば切れると思っていた。進路先は違うからそうなるだろうと思っていた。そういう予感はあった。でも、まだ次の春までずっと時間があって、秋と冬が控えているこの時期に、言われるとびっくりする。

「……え? は、本当?」

「本当です」

「そう、なんだ」

「驚かせてしまい、申しわけありません」

「え、いや、驚いたけど、けど……うん、まぁ、そんな予感はしてたから」

 歯切れの悪い返答になった。そんなふうに答えながら、あたしは何だか時の流れがゆっくりになるのを感じていた。

「大学が遠いから、とかそういう理由?」

「違います」

「違うんだ……」

「試したくなったんです」

「はい?」

 今の自分での合格が難しいけれど勉強を続ければ受かるかもしれない大学を、志望校にすることはある。あたしの周りで国公立を目指して、私大を滑り止めにしている子がそんな感じだ。つまり、試すという行為は、保険をかけることがある。失敗しても何とかなるから挑戦してみようという気になるのではないだろうか。石田の今の発言は、危険な香りが漂っている。

 高校を卒業して、大学に入学して一人暮らしをしてということは良いことかもしれないけれど、石田のそれは何だか生き急いでいるように見えた。はっきりと言えば、恐ろしいものを感じているし、怖い。石田をそれほど突き動かすものは、何なのだろうか。医療従事者として働くお姉ちゃんのように、仕事とや社会での役目とか、そういう自分の外側から生じるものではないのは分かる。

 怖いし分からないけれど、だからといって拒絶しようという気は、あたしにはなかった。多分、あたしは石田のこの言動を、この男は馬鹿だからこんなことを言っているのだ、と自分の範疇に押し留めて、無理に納得している節がある。

 あたしは弁明するかのように自分の狭い額を指先で叩く。

「え、っと、ごめん、これは何も石田を悪く言いたいわけじゃないんだけど、……気は確か?」

「挑戦は若い時の方がしやすいですから」

「お父さん……ご両親は良いって?」

「はい」

「凄いね」

 素直に褒めると、石田は恥ずかしそうに目元を丸く曲げる。そんなことありませんよ、と言ったような気がした。

「あたしからも一つ、いい?」

「どうぞ、何でしょうか?」

「どうして、あたしに話したの?」

 悩むだろうと思っていた答えは、すぐに返ってきた。真剣な眼差しが、あたしに向けられる。

「中村さんが、好きだからです。ずっと前から」

 頬が一気に熱くなる。それはそれ、これはこれというやつなのではないだろうか。石田の進路先や将来のことを話すことと、あたしとの関係のことが繋がる理屈も意味も論理的な展開も、何も分からない。これだから、国語のできない奴は好きじゃない。いや、この好きじゃないは、石田の言うそれとは別で、そういう意味での嫌いというものではない。

「中村さん?」

「何?」

「ご理解いだけましたか?」

「全然分からない」

 あたしが悪いみたいに訊かれて、思わず大きな声が出た。あたし達以外誰も居ない図書室に響いた。石田は顰蹙そうに眉を寄せ、自分のマスクの前に、人差し指を添える。

「中村さん、お静かに」

「だったら、分かるように説明して」

 説明という言葉を口にしたけれど、適切ではない気がした。果たして、あたしの求めているのは、石田からの説明なのだろうか。きっと多分、説明なのかもしれないけれど、説明ではないと分かっている気もある。仮に説明されたところで、あたしはどうすれば良いんだ。説明を受けて、理解して、それで何?

 それよりも遥かに分かっていることが、一つある。あたしが答えないといけないことが、ある。石田はあたしのことが好きだ。あたしは石田のことを、どう思っているのだろうか。石田は自分の言動に責任を持って、言った。あたしは彼のように、自分の発言に責任を持てるのだろうか。馬鹿なはずの石田は、あたしよりずっと先に大人になっていた。責任を取るとかそういう部分とは違った面で、石田は大人だった。自分の気持ちに正直になり、誤魔化すことなく、好きですと伝えられるのは、紛れもなく大人だった。

「分かりました」

 石田はそう宣言してから、すぐに続けて落ち着いた調子で言う。

「前提となりますが、僕の言う好きは、友達同士、ライク的な意味合いではありません」

「うん、それは分かる」

 石田は安心したように息を吐く。

「それは良かったです。おそらく、中村さんを惑わせているのは、どうして、という部分だと思われます。つまり、どうして僕があなたのことを好きなのか、という部分です」

「それもある」

「それも?」

「石田の将来とあたしと付き合いたいってことが、繋がらない。別個じゃない?」

「別個かもしれません。ですが、僕にとっては、繋がっています。中村さんが知りたいのは、この繋がっている部分ですね?」

「うん、そう」

「僕は不安です」

「あたしも今、不安だけど?」

「そうですか。僕はこれからもこれまでも不安です。自分で選んだ道ですが……。受験がどうこうもありますし、その先の生活が上手くいくかどうかも分かりません。ですので、僕のことを知っている中村さんに全てを打ち明けて、心の荷を一つ、下ろしたかったわけです」

「それで、心は軽くなった?」

「なりました」

「良かったね」

「はい、ありがとうございます。話を、中村さんと僕のことに進展させても構いませんか?」

「嫌って言われたら、進展させない?」

「はい」

「そう言い切られると困るんだけど?」

「申しわけありません」

「謝らないでよ……良いよ、続けて」

「ありがとうございます。僕の将来のことを話して、僕は不意に気づきました。中村さんのことが、ずっと好きだったんだな、と」

「どうして?」

「分かりません。ですが、こんな僕にこうして付き添ってくれているからだと思います」

「はい?」
「中村さんはご存知ないかもしれませんが、僕達は三年連続同じクラスで、三年連続図書室でこんなふうに過ごしています。そういう律儀でマメで義理堅いところに惹かれました」

 そんなことを真正面から言われると思ってなかったので、反応に無茶苦茶困った。段々と自分が追い詰められているのが分かる。石田が言葉を重ねる度に、あたしは問われている。中村さんは、僕のことをどう思っていますか、と。

 あたしも石田も多分そこまで器用じゃないと思う。指先や手先の話ではなくて、物事を考えたり、精神的な部分の話。大学受験の勉強と恋愛を両立させるのは難しい。お姉ちゃんが、仕事と恋愛どちらを取るのか悩んでいたのと同じようなものだ。それで、お姉ちゃんは仕事を取らざるを得なかった。社会の空気がそんなふうにさせた、と思っている。

 でも、あたしはどちらも選べる。大学に受かるために勉強を続けてもいいし、石田と付き合っても良い。あたし達を縛る尤もらしい理由はない。理由がないからこそ、困る。石田のように自分で自分の責任を負えるようにできていない。あたしはまだそんなに大人じゃない。しかし、大人じゃないからといって、誰かを好きになってはいけないというわけじゃない。でも、と続けたくなる。

 でもは新しいでもを呼び寄せ続ける。あたしは石田の気持ちに答えるのを渋っている。そんなふうに見れないと答えたい気持ちがある一方で、そんなふうに石田を切り捨てられないあたしがいる。なら、この気持ちは、好きというものなのだろうか。

 あたしは視界の端に写る自分のマスクを見下ろして、石田の口元を覆っているマスクを見る。あたしは話を切り替えるように、石田に声をかける。

「ねぇ、石田」

「何でしょうか?」

「ちょっと買い物、付き合ってよ」

「これからでしょうか?」

「うん」

「あの、中村さん」

 石田が今最も知りたいであろうことを奪うように答える。

「買い物終わってから、教えてあげる」

「何を買う予定ですか?」

「内緒。あ、そんな重たい物を買うわけじゃないから」

 自分の似合う色に染まった綺麗な唇を、石田には見せたかった。〈了〉


 

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