花落ちて 風に流され 言の葉の
形追いかけ 何を描くか
また一カ月ぐらい期間が空いていた。随筆を書くのは、僕にとってはそれくらいの頻度が合うのかもしれない。
SNSと距離を保ったりしていると、何もしない時間が生まれた。アフィリエイト記事を書いたり、思索に耽っている。純文学や小説について考えていることが多く、今回はそのことについて色々と書いていく。
小説に限った話ではないけれど、物を書くという行為は、時間がかかる。書き上げるまでに時間がかかり、読まれるまでにも時間がかかる。その遅さは、当たり前のことだと思われている。そういうものであると思われているかもしれない。
読者はすぐには現れない。どこかで出会い、時間をかけて読み、もしかすれば読者の心に何かが残るかもしれない。そうして幸運なことにその一人の読者が、何作もの作品を読んでくれたり何度も同じ作品を読み返してくれるかもしれない。
世の中の流れは、あまりにも速い。簡単で、分かりやすく、すぐに理解できるものが次々と現れる。SNSや動画は、一瞬で消費されていく。気づけば次の情報が流れてきて、前に見ていたものはすぐに忘れられる。憤りも怨嗟も嫉みも妬みも、次の対象へと移る。
自分の書いているものは、その速度とは明らかに相性が悪い。
その速さが違うことを理解して、何も出さないままでいるのは、違うのではないだろうか。
自分の書くものを変えるということを考えているわけではない。文章の速度や、余白や、読み手に委ねる部分まで軽くするつもりはない。
そこに辿り着くまでの入り口だけは、少し広げてもいいのではないか。
入り口を作るとなれば、何が入り口になるのか分からない。どのような入り口が適切なのかも分からない。その入り口が入り口として機能するかどうかなど、もっと分からない。
分からないだらけであるが、こういう分からないものに対して考え、挑んでいくのが、一つの形のような気がしてならない。腰を据えて、熟考し、色々と試す。粘り強さは、速さとは対極に位置する。
フックや引っ掛かりがあれば、読者の入り口として機能するのではないだろうか。全く知らない第三者の情報よりも、友達や知り合いや自分がどこかで見たことある情報の方が、信じられるように。
言語化や語彙力というものを気に掛けている方が多い。ここに絞れば、何か糸口が、光明が差すのではないかだろうか。
一文だけ取り出して、どこがおかしいのかを短く説明する。
例えば、助詞や助動詞に注目する。「は」と「が」の違いであったり、「に」と「へ」の違いであったりするように。
もっと直接的に、純文学の書き手が純文学の近現代の作品をどのように読んでいるのか紹介しても良いのかもしれない。
川端康成の「雪国」が素晴らしい小説であること、美しい描写の数々で彩られていることを見聞きして知っているだろう。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
この冒頭が有名である。情景が浮かんで来るので良い描写なのだろうと思う。何が美しいかと問われると、何となく分からない。
純文学を好んで読む人間は、ここをどう読むのか。僕は、この後に続く「夜の底が白くなった」という一文と合わせて、新感覚派と呼ばれる川端康成の真骨頂が現れていると思っている。
「夜の底が白くなった」という一文によって、夜でありながら白く見える情景が立ち上がってくる。その美しさが、この二つの文章で過不足なく読者に届けられているように思う。
全部を説明する必要はない。一つだけ分かればいい。
文章そのものは重たいままでも、その入り口は軽くできる。
言葉の違和感や、助詞の使い方、文章の組み立て、読み方……そういう言葉に関することを少しずつ切り出す。
それだけで小説などが読まれるようになるとは思っていない。
どこかで引っかかった人が、もう一歩だけ進んでくれる可能性はある。記事に辿り着くかもしれない。そこから、作品を読むかもしれない。あるいは、そのまま離れていくかもしれない。
何もなかった状態よりは、出会う確率は少しだけ上がる。
本体は変えない。書いているものはそのままにしておく。その代わり、そこに至るまでの経路だけを増やす。
遅いものを、速くすることはできない。
出会うまでの時間は、少しだけ短くできるかもしれない。全く見向きも興味もなかった純文学というジャンルに関するもののきっかけを、偶然でも作ることができるのではないだろうか。ショート動画やTikTokで見たやつ、と思われるではないだろうか。
できることをやってみる。
しばらくは試行錯誤が続く。
心のどこかで、こんなことをやって意味があるのだろうかと思う時が来るだろう。あるいは、こんなことをするより、純文学の作品や小説を書いた方が有意義なのではないか、自分の仕事をするべきなのではないか、と思う時が来る。
そうかもしれないと頷きたくなる。分かる人間にだけ分かれば良い、純文学というのはそういうのであるという態度が、速さに適応できたジャンルと大きな距離を、はっきりといえば溝を作ってしまったのではないだろうか。
サブカルチャーとして純文学を消費するのか、と考える方もいるだろう。純文学というものは果たして、メインなのだろうか。ハイカルチャーなのだろうか。僕には分からない。純文学がどのようなカルチャーであるのかということは、僕にとってはまだ先の話である。
カルチャーのことを考える前に、まずは作り手がそれで日々の暮らしをちゃんとできていけるか。純文学を書くだけで日々の暮らしができて、それから純文学というカルチャーについて考えたい。
暮らしの第一歩目として、多くの人に作品を知ってもらう必要がある。何かの賞を受賞したとかそういう特別な理由ではなく、普通に作品を手に取ってもらえる環境を作りたい。
うまくいくかどうかも分からない。考えていることと、やっていることが一致している状態にはなっている。
それだけでも、今は十分だと思っている。
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