「例外の定食」
「二日連続……?」
洗い物の音に紛れるように自分にしか聞こえない大きさで、独り言のように言ったはずなのに、テーブルの向こうのキッチンに立って洗い物をしていた彼女の動きが止まったように思えた。けれども、すぐに唯の手が動き出す。蛇口が閉められ、しんとした嫌に重さを覚える沈黙が、俺達の間に満ちる。
ホワイトのワイドパンツが少しはためいたかと思えば、大きなリング状のピアスといつも背中で上手にカールされているブラウンのセミロングが大きく揺れた。黒いハイネックの上にエプロンをした唯が、身を翻す。
「何、嫌?」
勝ち気に釣り上がった目が、俺と俺達の間に置かれている夕食を交互に追いかける。唯の口からはそれ以上の言葉が続かない。俺からの返答を待っているように、赤い唇は噛むように強く引き締まっている。
俺は唯の切れ味の良い言葉や目付きから逃れるように、白い天井を見上げる。動いた鼻先に、揚げ物の香りがついてきた。
嫌じゃない、嫌だ、というどちらも今となってはもう不正解である返答以外に、この場を切り抜けられる方法を探し出そうとする。一方で、どうして二日連続で同じメニューを唯が作ったのかという経緯を思い出していた。
大学の同期であった俺と唯は、部署は違えど就職先が重なった縁もあり再び同期となり、大学生から社会人という環境の急速の変化を互いで乗り越えるように自然と恋人になった。俺と唯の家の中間地点に位置している職場は、俺の家からでも唯の家からでも出勤しやすい位置にあり、週末のような、どちらの家に帰っても良いという時には、残業などなく定時に退勤できた方の家に行くということすらある。
普段は俺が唯の家を訪れることが多いのだけれど、冬の間は色々としなければいけない計算が多い事務員の唯は残業が多くなり、俺の家に唯が訪れる機会が増す。ただだからといって、俺が自宅に居るわけではない。俺は俺でこの頃になると、営業職の人間として普段の業務以外に、今年お世話になったお礼や来年も何卒というような挨拶回りという名の規模を問わない飲み会が増え、どうしても遅くなる。
そう、だから、二日連続で夕食のメニューが同じでも全くおかしくないわけである。金曜日の夜に残業を終えて、彼氏の家で料理を作り、翌日の土曜日、しかも休日にもキッチンに立ち、別の料理を作っているこれまでの唯が少しおかしいまである。俺だったらどちらかは外食とかやる。
しかし唯の料理を作るという行為は好きという興味から生じるだけではなく、ストレス解消の意味も兼ねているのを知っている。大学の時はクッキーとかケーキとかを焼いていた。そういう観点に立って考えると、休日にも唯がご飯を作るのは不思議ではないと思える。不思議なのは、同じメニューが二日連続、夕食の場に登場していることである。
しかも、唐揚げ。平な白い皿に、小さな丘のように茶色く積み重ねられており、脇には冬場の山肌のように赤いトマトが串切りにされている。千切りにされたキャベツが瑞々しい川のように小高い丘の後ろを流れている。白ご飯、豆腐とワカメの味噌汁も用意されており、定食だ。昨日のような小振りな丼と小さいサラダとは違うけれど、唐揚げがメインであることには変わりはない。
唯はカレーや鍋の時以外で、二日連続で同じメニューを食卓に並べることがない。手抜きと思われたくないらしい。それで食費などを上手くやりくりしているので、俺にはできない芸当。
「あ、いや、揚げ物作るの嫌いじゃなかった?」
俺はようやく確定の不正解を踏まないための言葉を見つけられたような気がした。
唯が昔、言っていたのだ。揚げ物を作るのが好きじゃない、と。炒飯とか餃子とは好んで作る俺にはピンと来ないことだけれど、揚げ物を作るのは時間がかかる。油が跳ねて火傷するとかもあるし、掃除も時間も要するし、油の処分も中々に面倒だと言っていた。何と言っても、カロリーが高いという理由もある。
唯の白い眉間に皺が寄る。舌打ちを打とうとしてぎりぎりで堪えたようで、白い歯の隙間から覗けた赤い舌先のピアスが光を受けて一瞬輝いた。
「は?」
「あ、はい……済みません」
唯は呆れたように溜め息を吐き、
「覚えてない?」
という言葉をリビングに残して、俺の横を大雑把に歩いて通り抜ける。
脱衣所の洗濯カゴが揺れるように汚れたエプロンを放り込むとリビングへと戻ってきた。唯の顔は、それまでの怒りを感じさせないほど白く澄ましたものに変わっていた。
「とりあえず冷めないうちに食べようよ」
俺の前の椅子に細い腰を据えて言う言葉にも、怒りの影はない。淡々とした調子には、どこか諦めているような気配すら漂っているような予感すら覚える。俺はこういう唯を、職場で見聞きしたことがある。ストレスをこれ以上蓄積させないために受け流す時のそれ。
折角の休日に仕事や職場のようなストレスを感じさせてしまっては良くない。そういうことをさせないために、俺達は共に過ごしているのではないだろうか。俺は自分が怒られると分かっていても、自分の目の前に置かれている箸を持たずに力強く言う。
「いや、このままじゃ駄目」
唯の細長い眉が瞬く間に吊り上がる。
「は? え、何、蒸し返す?」
「まずは、ごめん。忘れている俺が悪い」
謝ると、唯は怒りが爆発するのを防ぐように小振りな鼻を大きく鳴らす。釣り上がった眉は心持ち穏やかな角度に和らいだように見える。大きなブラウンの瞳が、俺の言動を見逃さないようにじっと見ている。
「で? 何、急に意地になって?」
俺はひとまず、俺自身が直面している疑問を正直に伝える。
「引っ掛かるんだよ」
「……引っ掛かるって何に?」
「今まで二日連続で同じメニューってなかったじゃん?」
「カレーとか鍋とかそういう時は例外としてね」
「そう」
「だから、何?」
「何かあるんだろうなぁって思うんだけど、思い出せない」
そ、という短い言葉を返し、唯はお腹減ったから先に食べていい? と尋ねて来た。俺が良いよと答えると、唯は両手を合わせてから食事に手をつける。
覚えてない? と唯は言っていた。ということは、きっと、昨日の俺と唯の間で話したことが今晩のことをもたらしたのだろう。
昨日のことを思い返してみるが、普通に仕事をしていた記憶しかない。営業畑の人間として業務を遂行し、取引先の機嫌を伺うように飲みに出掛けて、帰って来た。唯はその時も、今晩のようにキッチンに立ち、機嫌が良さそうに鼻歌を唄いながら、唐揚げを作っている途中だった。
飲み会の後に食べる唯の手料理は、普段より美味しく感じる。外で飲んだり食べたりするものも確かに美味しい。だけれども、そういう外食とは違うものが、唯の作る料理にはある。別に、あっと驚くような料理であったり、無茶苦茶時間をかけて作っているというわけではない。昨日は丼で、今日は定食だし、仕事の休憩中にランチなどで食べられるメニューである。
それが不思議と美味しい。カレーとか鍋の時のような例外を除き、全然二日連続で同じメニューが出て来ても良いと思う。
俺は大声を上げた。
「あ!」
味噌汁の茶碗を持ち、啜っていた唯が非難するように無言で見上げてくる。でもその目は今までの鋭いものではなかった。ようやく思い出したの? と言いたげな呆れでは隠しきれない喜びを帯びている。俺は俺で唯の味わっている喜びとは全然違う、一つの謎が解けた気持ち良さに囚われていた、自然と声が大きくなり、強張っていた頬が幸福で柔らかく持ち上がる。
「え、あ、そういうこと。あ、はいはい、そういうことね」
「……黙ってほしいんだけど?」
俺は勢い良く両手を合わせ、すぐに夕食を食べる。真っ先に唐揚げを頬張る。全然熱く、噛んだ瞬間、肉汁が口の中に広がる。
「え、ちなみに一つ訊いていい?」
唯は箸置きに箸を置き、俺の追求から逃れようとする。白く小さな顔全体に、迷惑、という言葉が浮かんでいるようだった。
「私、ご飯の時に無茶苦茶喋る人、嫌いなんだけど」
「まぁまぁ、そいいうのは置いておいてさ。確認したいことがあるわけ」
「良いよ、言っても」
「答えてくれる?」
「訊いてから考える」
「社会人仕草じゃん?」
「それで訊きたいこと終わり?」
「違う違う」
「それで、何?」
「どういう心変わりなわけ?」
「……何が?」
「二日連続で夕食のメニューが同じって初めてじゃん? あ、カレーや鍋は例外だから除くよ」
いつの間にか食べ終えた唯が、テーブルに片腕を伸ばし、その腕に耳の辺りを引っ付け横になる。赤い耳たぶを隠すようにカールされたブラウンの髪が流れる。
唯は今晩で初めて長い溜め息をついた。自分の心に溜まっている感情を吐き出すように。唯は短い言葉で、一つずつ俺に確認する。
「年末進行じゃない?」
「まあもう時期だし?」
「忙しいじゃん?」
「まぁ、少しは……?」
「残業多いじゃん?」
「事務職ってそこらへんも把握しているわけ? 流石……」
「何?」
「何でもないです」
「よろしい。それで、お得意様との付き合いもあるわけじゃない?」
「この時期の大事な仕事の一つだね」
「色々と立て込んだ仕事を片付けて、帰ってくるわけじゃない?」
「うん、そうなる」
一瞬、会話が途切れた。唯の視線が俺を顔を見上げたかと思えば、宙を舞う。
「恋人の希望の一つや二つぐらい叶えてあげても良いかなって思ったわけ」
「唯」
「何?」
「ありがとう」
「……次忘れたりしたら、本当に怒るから」〈了〉
当サイトでは、月に一度小説の更新をお知らせするメールマガジンを配信しております。登録及び解除はこちらから行えます→メールマガジン発行について
Googleフォームを活用して、面白い・良かったという一言感想から更に掘り下げ、言語化を手助けするアンケートをご用意しております。よろしければご活用ください。→掘り下げ用フォーム
作品の裏話の限定公開、中編の先行公開などの特典があるファン倶楽部開設しております。→ファン倶楽部開設をお知らせ