目次
ローカル分析システムで何をしているのか
以前の記事で書いたように、生成AIに自分の作品を分析させるためのローカルシステムを作っています。
きっかけは、自分の小説をもっと客観的に読めないかと思ったことでした。作品本文だけを生成AIへ渡して分析させることもできます。それだけでは作品の特徴を十分に捉えられないのではないかと思ったのです。
そこでWordPressに投稿している作品をローカル環境へ取り込み、作品本文だけではなく、タグやカテゴリ、頻出語、五感表現、類似作品なども含めて整理できるようにしました。
現在は、
WordPress
↓
ローカル分析システム
↓
Markdown生成
↓
ChatGPTへ添付
↓
作品分析
という流れで運用しています。

実際に使ってみると、自分の書く癖や作品ごとの特徴が以前より見えるようになりました。

どのような言葉を繰り返し使っているのか。視覚と聴覚のどちらに寄った描写をしているのか。頻出語彙や五感の比率などから他のどの作品と近い特徴を持っているのか。そうしたことは確かに分かるようになりました。
分析を続けているうちに別の疑問が出てきました。システムは作品の特徴を教えてくれます。その特徴を読者がどのように受け取るのかまでは分かりません。
人は同じ小説を読んでいるようでいて、実際には少しずつ違うものを読んでいます。システムを使いながら作品分析を続けていたのですが、途中から別のことが気になり始めました。
人は同じ小説を同じようには読まない、ということです。
自作品を分析してぶつかった壁
自作品を分析させて得られたものは多くありませんでした。
五感の比率などは自分の書く癖を知れるようで面白かったのですが、そのようにして得られた分析結果をどのように活かすのか、というところに疑問を抱きました。
視覚をメインに描写することで、読者は何を知るのでしょうか。聴覚をメインに描写することで、読者は何を知るのでしょうか。頻出語が分かったとして、それは作品にとってどのような意味を持つのでしょうか。
もちろん、自分の書く傾向を把握することには意味があります。それだけでは分析結果がただの記録になってしまいます。
小説の描写は、数値のバランスを整えるためだけに存在しているわけではありません。読者に何を見せるのか、どこで立ち止まらせるのか、何を分からないまま残すのか……。そうした部分まで考えないと、小説の分析としては不十分なのではないかと思うようになりました。
そもそも読者は、小説をどのように読んでいるのでしょうか。
生成AIはプロンプトによって役割を与えることで、それに応じた振る舞いを見せてくれます。ならば、読者の状態そのものを定義できるのではないか。
そんな発想が生まれました。
同じ作品なのに感想が違う
小説を書いていると、感想の違いに驚くことがあります。ある人は会話を覚えていますし、ある人は風景描写を覚えていることもありますし、ある人は最後の一文だけを覚えていることがあります。
重要だと思って書いた箇所が全く話題にならないこともあります。何気なく書いた一文を強く印象に残ったと言われることもあります。
考えてみれば当然なことなのですが、読者はみな別の人生を生きています。主義嗜好が違うのは当たり前のことですし、興味や趣味も違えば、読書経験も違います。同じ文章を読んでいても、見ている場所は少しずつ違うのです。
AIは一つの読解に収束しやすい
生成AIに分析させると、そうした揺らぎが消えてしまいます。作品全体を見渡しながら登場人物の変化を整理し、テーマを抽出し、伏線同士を結び付けます。分析としては、正しいように思います。
人間の読書体験とは少し違います。人間は途中で勘違いしてしまいますし、読み飛ばすこともありますでしょうし、誤読をすることだってあります。気になる箇所で立ち止まり、考えを巡らせたり、先を予想することただってあります。
生成AIの分析結果を読んでいるうちに、僕は作品の分析だけでは足りないのではないかと思うようになりました。
この辺りの話は以前の記事「AIは小説を分かりすぎる」で詳しく書きました。
読者状態(reader_states)を作った
そこで作ったのが読者状態(reader_states)です。
これは作品ではなく、読者側の条件を定義するための仕組みです。

初読読者、純文学に慣れていない読者、分からなさを保持する読者、展開重視の読者、文体重視の読者、読み飛ばしがちな読者、疑い深い読者……。
同じ作品でも、どの読者を想定するかによって分析結果は変わります。作品の特徴を変えるのではなく、読者の見方を変える。
そのような仕組みです。
これは実在する読者を完全に再現するものではありません。あくまでも読解条件を変えるための補助線です。
その読者ならどこで引っ掛かるのか、その読者ならどこを評価するのか、その違いを確認するために使っています。
『モデラートの生き方』で試してみた
HPで公開している自作の小説「モデラートの生き方」で、実際にやってみました。
以下はその時の記録です。
使用生成AIは、ChatGPT Plusです。
同じ作品を複数の読者状態で分析すると、結果は予想以上に変わりました。
文体重視の読者として読む
まず文体重視の読者として読ませた場合です。
文体重視の読者で読むと、この作品は「何が起きたか」よりも「どう書かれているか」に意識が向きます。
展開重視読者が「女子生徒の悩み」を追っていたのに対し、文体重視読者は「安井という人物がどのような言葉で立ち上がっているか」を追います。
特に特徴的だったのは以下の点です。
冒頭の描写が「説明」ではなく「身体感覚」から始まる
文体重視読者は最初の数段落で、腕時計を外す、手首を軽く保つ、額の汗を拭う、椅子が少し高い、といった描写に注目します。
これは調律師の説明ではなく、「身体を使う仕事をしている人」として安井を立ち上げています。
もし作者が「安井はベテランのピアノ調律師だった」と書いていたら、情報は伝わります。
しかし現在の書き方だと、読者は安井の身体を先に見る。職業が後から見えてくる。文体重視読者はこの順番を評価します。
音を描く文章が多い
この作品は視覚より聴覚が強い。分析データでも聴覚語が最も多い。
特に、「人が項垂れた時に発する声のように」という比喩。
これは音を音で説明していません。人間の姿勢を使って音を表現している。
文体重視読者はこういう箇所で立ち止まります。「どんな音か」ではなく「どう感じる音か」として書かれているためです。
女子生徒登場時の観察の順番
女子生徒の描写は、顔、制服、髪、という順番ではありません。
安井の視線が実際に動く順番で書かれています。
ネクタイ、スクールバッグ、スカート、靴下、上履きと観察が降りていく。
文体重視読者はここで、「作者が人物紹介をしている」のではなく「安井が見ている」と感じます。
指だけの演奏描写
最も文体評価が分かれそうなのがここです。
指が開かれる。右手が飛び跳ねる。小指と親指が動く。
以降の描写。
文体重視読者はここをかなり印象深く読みます。
理由は、実際には音が鳴っていないのに、文章が音楽を発生させようとしているからです。
一方で、音楽経験のない読者はイメージしにくい。
つまり「魅力」と「難しさ」が同時に存在する箇所として読まれます。
会話文が説明に流れにくい
文体重視読者が評価しやすいのはここです。
例えば女子生徒は、「私はコンクールの重圧に苦しんでいます」と言わない。
安井も、「あなたは結果主義に疲れているのね」と言わない。
代わりに、「次のコンクールで一番になれると思いますか?」という問いが置かれる。
読者がそこから逆算して状況を理解する構造になっています。
安井の過去が断片的にしか語られない
文体重視読者は、安井の過去そのものより、語られなさに注目します。
例えば、なぜ音大を辞めたのか、どの程度成功していたのか、何が決定打だったのかは説明されません。
しかし、寂しかった、虚しかった、という短い言葉だけが残される。
文体重視読者は、この省略によって安井の過去を補完しながら読みます。
特に評価されやすい台詞
文体重視読者が強く反応しそうなのは、「辞めるのなら、今の内よ」です。
理由は情報量ではありません。
この台詞だけが、作品内で異様に冷たい。
それまでの安井は柔らかく話しているのに、ここだけ急に温度が下がる。
文体重視読者は、「なぜこんな言い方になるのか」を考え始めます。
文体重視読者が引っ掛かる弱点
評価だけでなく、引っ掛かりもあります。
特に冒頭のピアノ構造説明。
木と金属で構成されている、以降の説明は情報としては理解できます。
ただ文体重視読者からすると、それまで身体感覚で進んでいた文章が、少し解説調になる。
そのためリズムが一度変化しているように感じられます。
文体重視読者の総括
文体重視読者がこの作品で最も印象に残すのは、「競争の是非」でも「コンクール」でもありません。
むしろ、手首の痛み、指先の動き、音の重さ、沈黙、言い切らない会話といった、文章の温度差です。
この読者層はストーリーの結論より、「安井が女子生徒に『辞めるのなら今の内よ』と言ってしまうまでの文章の運び方」を強く記憶します。
つまりテーマより先に、語りの呼吸を読んでいる読者です。
展開重視の読者として読む
次に展開重視の読者として読ませてみます。
展開重視の読者で読むと、この作品はかなり違った見え方になります。
この読者は文体や細部の描写より、この人物は何に悩んでいるのか、次に何が起きるのか、どこに向かう話なのかを優先します。
そのため、文体重視読者が高く評価した箇所が、必ずしも同じようには読まれません。
冒頭は「少し長い」と感じやすい
展開重視読者が最初に抱くのは、「この話はどこへ向かうのだろう」という感覚です。
しかし冒頭数ページは、ピアノの状態、調律作業、湿度、音の変化が中心になります。
そのため、「職業小説かな?」「調律師の仕事紹介かな?」という読みになります。
物語の中心がまだ見えない。
ここは展開重視読者の読解速度が最も落ちやすい部分です。
女子生徒登場で初めて物語が動き出す
この読者にとっての最初の転換点は、女子生徒の登場です。
理由は単純で、「問題を抱えていそうな人物」が現れるからです。
読者の関心は、調律師から女子生徒へ移る。
ここから「この子に何があったのか」が読書の主目的になります。
「禁煙です」が強く記憶される
文体重視読者は語調を見る。
展開重視読者は人物関係を見る。
「禁煙です」という一言で、この生徒が、真面目、融通が利かない、緊張している、のどれかだと推測します。
つまり人物紹介として機能している。
指の演奏描写は半分読み飛ばされる
文体重視読者が最も面白がる部分ですが、展開重視読者は違います。
この読者が取得する情報は、この子はかなり上手い、音楽経験がある、普通ではない、くらいです。
細かなリズムや運指は、あまり記憶に残りません。
「辞めるのなら今の内よ」が最大の転換点
展開重視読者が最も強く反応するのはここです。
「辞めるのなら、今の内よ」
それまで読者は、元演奏家だった調律師、という認識で読んでいます。
しかしこの台詞によって、過去に何かあったことが確定します。
ここで初めて、女子生徒の問題と安井の過去が繋がります。
安井の過去に興味が集中する
この時点から読者は、女子生徒の問題そのものよりも、安井に何があったのかを知りたくなります。
例えば、なぜ演奏家を辞めたのか、何に挫折したのか、何を後悔しているのかです。
展開重視読者は、物語の現在よりも、安井の過去を追い始めます。
「勝てますか?」が相談の本体だと読む
「次のコンクールで一番になれると思いますか?」
この台詞が出た瞬間、読者はようやく問題を把握します。
ここで初めて、女子生徒が求めていたものが見える。
それまでの会話は、この質問に至るための前振りだったと理解されます。
読者が意外だと感じる箇所
展開重視読者が意外に感じるのは、安井が励まさないことです。
普通なら、君ならできる、頑張れ、自信を持て、になる。
しかし安井は言わない。
そのため、「この作品は成功物語にはならないな」という認識が生まれます。
終盤の印象
展開重視読者は、終盤を「コンクールの話」としてではなく、「目的の話」として読んでいます。
印象に残るのは、「もっと普通に、楽しく、弾きたいです」です。
この台詞によって、女子生徒が抱えていた問題が整理される。
読者はここで、「勝つことが問題だったのではない」と理解します。
展開重視読者が感じる弱点
最も指摘されやすいのは、前半と後半の密度差です。
前半は、調律、ピアノ説明、学校描写。後半は、核心会話。
そのため、「女子生徒が出るまで少し長い」という感覚を持つ読者は一定数いるでしょう。
ただし女子生徒登場以降は会話主体なので、読解速度は一気に上がります。
展開重視読者の総括
展開重視読者がこの作品で最も印象に残すのは、文体重視読者のような音の描写、指の描写、語順ではありません。
むしろ、女子生徒登場、「辞めるのなら今の内よ」、「勝てますか?」、「もっと普通に弾きたいです」という四つの場面です。
つまりこの読者は、「元演奏家の調律師が、かつての自分に似た高校生と出会う話」として作品を記憶します。
音楽や調律のディテールよりも、人物同士の問題と変化を中心に読んでいるのが特徴です。
読み飛ばしがちな読者として読む
同じ箇所であっても、文体重視の読者とは全く違う見方をしていることが分かります。
読み飛ばしがちな読者では、さらに別の結果になりました。
読み飛ばしがちな読者は、今回の読者状態の中でもかなり特徴的です。
この読者は、一文一文を精密には追わない、長い説明は飛ばす、会話文を優先する、「今何が起きているか」だけを拾う、という傾向があります。
そのため、作者が意図して置いた情報と、実際に受け取られる情報の差が最も大きくなります。
冒頭の技術説明はかなり飛ばされる
読み飛ばし読者が取得する情報は、主人公は調律師、夏、ピアノがおかしい、修理している、程度です。
例えば、椅子の高さ、鍵盤の重さ、ピン板、木材と金属などの説明はほとんど残りません。
読者の頭の中では、「ピアノを直している人」くらいまで圧縮されています。
安井の人物像がかなり単純化される
本文では、元ピアニスト、音大出身、調律師、手首に痛み、煙草を吸う、という複数の情報があります。
しかし読み飛ばし読者は、「昔ピアノをやっていた調律師」程度で理解します。
手首の痛みなども、後の伏線としてはほぼ認識されません。
女子生徒登場で急に集中力が戻る
これはかなり特徴的です。
物語に新人物が出ると、読み飛ばし読者は再び注意を向けます。
特に、「禁煙です」という台詞は覚えています。
理由は短いからです。
長い描写より、一言の会話の方が記憶に残る。
制服描写はほぼ読まれていない
本文ではかなり丁寧に書かれています。
しかしこの読者が残す情報は、女子高生、真面目そう、大人しい、程度です。
ネクタイの色や靴下の長さまでは保持されません。
指の演奏描写は誤読されやすい
ここが特徴的です。
本文では、指だけで演奏を再現している。
しかし読み飛ばし読者は、「実際に弾いた」と一瞬勘違いする可能性があります。
なぜなら細部を追わないからです。
結果として、「なんかすごく上手い子なんだな」だけが残る。
「辞めるのなら今の内よ」が最重要台詞になる
読み飛ばし読者が最も覚えているのはここです。
「辞めるのなら、今の内よ」
それまでの説明を飛ばしていても、この台詞だけは強制的に目に入る。
結果、「あ、この人も何かあったんだな」と理解する。
安井の過去はかなり省略されて受け取られる
本文には、音大、コンクール、才能、進路などが書かれています。
しかし読み飛ばし読者の理解は、「昔はすごかったけれど辞めた人」程度です。
細かな事情までは入らない。
「勝てますか?」で初めて問題を理解する
この読者はここでようやく、女子生徒の悩みを把握します。
「次のコンクールで一番になれると思いますか?」
ここまでは、何か悩んでいる、くらいしか分かっていない。
この台詞によって、「勝つことが問題なんだ」と整理されます。
終盤で最も残る台詞
「もっと普通に、楽しく、弾きたいです」
読み飛ばし読者でもここは残ります。
理由は、文章全体の中で最も直接的だからです。
比喩も説明もない。感情がそのまま書かれている。
読み飛ばし読者が誤読しやすい箇所
「才能がないから辞めた話」として読む。
実際にはそこまで単純ではありません。しかし細部を飛ばすため、そう整理されやすい。
「プレッシャーに弱い女子高生」として読む。
本文にはそれ以上の複雑さがありますが、そこまでは追わない。
「競争を否定する話」として読む。
終盤のニュアンスはもっと細かいのですが、読み飛ばし読者は単純化しやすい。
読解速度が落ちる箇所
この読者が最も速度を落とすのは、冒頭の調律説明、ピアノ構造説明、指の運動描写、音大時代の回想です。
逆に、女子生徒登場、会話パート、コンクールの話は非常に速く読みます。
読み飛ばしがちな読者の総括
読み飛ばしがちな読者がこの作品を読んだ後に保持している情報は、驚くほど少なく整理されます。
おそらく、元ピアニストの調律師がいる、コンクールで悩む女子高生がいる、二人が話す、勝つことより楽しく弾きたいという話になる、という四点が中心です。
逆に言えば、ピアノ調律の技術、音の描写、指の描写、湿度の話、音大の細かな事情はかなり脱落します。
そのため、この読者層にとっての『モデラートの生き方』は、「競争に疲れた高校生と、かつて競争の中にいた大人が音楽室で話した物語」として記憶される可能性が最も高いです。
初読読者として読む
作者としては当然分かっているつもりの情報でも、読者によっては十分に伝わっていないことがあります。
初読読者として分析した場合は、次のような結果になりました。
初読読者は、今回の読者状態の中では最も「普通の読者」に近い立場です。
文体重視読者のように文章技法を追わず、展開重視読者ほど物語構造にも集中しません。読み飛ばし読者ほど情報も落としません。
そのため、「その場その場で理解できる範囲の情報を積み上げながら読む」という読み方になります。
初読時の最大の特徴は「安井の正体が少しずつ見えてくる」こと
初読読者は冒頭で、女性、ピアノ関係の仕事、慣れている、手首を気にしている、くらいしか分かりません。
しかし読み進めると、調律師、音大出身、元演奏家、コンクール経験者という情報が順番に出てきます。
初読読者はこの情報を後から統合して、「ああ、この人は元ピアニストなんだ」と理解します。
冒頭はまだ作品の方向性が見えない
初読読者は、職業小説、青春小説、音楽小説、どれなのか判断できません。
特に、ピアノの説明や調律の描写が続くため、まだ物語の中心が見えていない状態です。
読者の意識は、「この後誰か出てくるのかな」程度です。
女子生徒登場で物語が始まった感覚になる
女子生徒が現れると、初読読者は直感的に、「この子が重要人物だな」と感じます。
理由は単純です。
それまで安井しかいなかったところに、新しい人物が現れるからです。
読者の興味は、調律作業から女子生徒へ移ります。
「禁煙です」は人物像の手掛かりとして読む
初読読者は、この台詞から、真面目、融通が利かない、緊張している、という印象を受けます。
ただし、まだ彼女の悩みまでは分かりません。
指の描写から「かなり上手い」と理解する
指だけの演奏描写は、細部まで理解するというより、「この子は相当弾ける人なんだな」という印象になります。
初読読者は、技術的な内容よりも、安井が注目していることから「特別な才能を持っているらしい」と理解します。
「辞めるのなら今の内よ」で驚く
ここが初読読者にとって最初の衝撃です。
「辞めるのなら、今の内よ」
なぜなら、それまで安井は比較的穏やかだったからです。
初読読者は、「なぜそんなことを言うんだろう」と思います。
同時に、安井自身にも何か事情があると察します。
安井の過去を推測しながら読む
初読読者は、ここから安井の過去を少しずつ組み立てます。
分かることは、音大に進学した、優秀だった、演奏家を辞めた、という程度です。
しかし、なぜ辞めたのかは明確には分かりません。
初読読者はここを補完しながら読みます。
「勝てますか?」で悩みが見える
女子生徒の悩みが明確になるのはここです。
「次のコンクールで一番になれると思いますか?」
初読読者はこの時点で、コンクールが近い、結果への不安がある、誰かに保証してほしい、という状況を理解します。
安井の返答が印象に残る
普通なら励ます場面です。
しかし安井は、「分からない」という方向の返答をする。
初読読者は少し意外に感じます。
ただし冷たいというより、正直だな、という印象が残ります。
終盤で初めて女子生徒の本音が見える
初読読者が最も理解しやすいのは、「もっと普通に、楽しく、弾きたいです」です。
ここで、勝ちたい、ではなく、楽しく弾きたい、が問題の中心だったと分かります。
初読読者が理解していること
読み終わった段階で、おそらく以下のように整理しています。
安井は元ピアニスト。今は調律師。女子生徒はコンクールで悩んでいる。安井は自分の経験を踏まえて話した。女子生徒は少し気持ちが軽くなった。
ここまでは比較的確実に伝わっています。
初読読者がまだ理解できていないこと
一方で、安井は本当に後悔しているのか、調律師になったことをどう思っているのか、女子生徒は今後どうするのか、コンクールを受けるのか辞めるのかは分かりません。
作品も説明していません。
そのため初読読者は、「全部分かった」ではなく、「二人の会話を見届けた」という感覚で読み終えます。
初読読者の総括
初読読者が『モデラートの生き方』を読んだ時に最も強く残るのは、調律師と女子高生、音楽室、コンクールの悩み、「辞めるのなら今の内よ」、「もっと普通に、楽しく、弾きたいです」の五つです。
文体重視読者のように文章の呼吸を読むわけでもなく、読み飛ばし読者のように単純化もしない。
「何かを続けている人が、自分の目的を見失いそうになった時の会話」として受け取るのが、初読読者の最も自然な読み方だと言えます。
読者状態によって何が変わったのか
作品本文は一文字も変わっていません。
変わっているのは読者状態だけです。
ところが、読者状態を変えるだけで見えてくる問題や長所が変わります。
以前の僕は、この作品の問題点はどこか、より良くするためにはどこをどう改善するかという視点で分析結果を読んでいました。
今は少し考え方が変わっています。
誰にとって、どのように読まれたいのかという視点で分析結果を見るようになりました。
例えば、文体重視の読者で高く評価されたのは、女子生徒が指先だけで演奏を立ち上げる場面でした。実際には音が鳴っていないにもかかわらず、文章だけで音楽を感じさせる描写として読まれていました。
一方で同じ場面は、展開重視の読者や読み飛ばしがちな読者では、読解速度が落ちる箇所として認識されていました。その読者たちにとって重要なのは「この生徒はかなり上手いらしい」という事実であり、細かな運指やリズムの描写そのものではなかったようです。
また、冒頭の調律描写にも同じ傾向が見られました。文体重視の読者は、椅子の高さや鍵盤の重さ、手首の感覚といった身体描写から主人公像が立ち上がってくることを評価していました。しかし展開重視の読者は、女子生徒が登場するまで作品の方向性を掴みにくく、「少し長い導入」として読んでいました。
逆に、展開重視の読者が強く反応したのは、「辞めるのなら、今の内よ」という台詞でした。この一言によって、主人公にも過去の挫折や後悔があることが示され、物語が大きく動き始めたと読まれていました。
ところが文体重視の読者は、この台詞の内容そのものよりも、それまで柔らかかった会話の温度が急に変化したことに注目していました。同じ台詞を見ていても、展開重視の読者は物語上の転換点として受け取り、文体重視の読者は文章のリズムや温度の変化として受け取っていたのです。
さらに終盤の「もっと普通に、楽しく、弾きたいです」という台詞も、読者によって見え方が異なりました。展開重視の読者は、この言葉によって女子生徒の抱えていた問題が明確になったと読んでいます。一方で文体重視の読者は、この台詞そのものよりも、そこへ至るまでの沈黙や会話の積み重ねに注目していました。
同じ作品を読んでいるにもかかわらず、ある読者は物語の転換点を見ており、別の読者は文章の呼吸や温度を見ている。今回の分析で特に面白かったのは、その違いが想像以上にはっきりと現れたことでした。
全ての読者に同じように読まれる作品はありません。
読者状態を比較することで、作品の見え方そのものが変わることを実感しました。
どの読者状態にも共通して残るもの
読者状態を比較していて面白かったのは、違いだけではありませんでした。
読者によって評価が変わる箇所もあります。どの読者状態でも印象に残る描写や場面もあります。文体重視の読者でも、展開重視の読者でも、初読読者でも共通して反応が返ってくる部分です。
今回の作品では、「辞めるのなら、今の内よ」という台詞は、ほぼ全ての読者状態で強く反応されていました。
展開重視の読者は物語の転換点として読み、文体重視の読者は会話の温度が変化する瞬間として読んでいます。読み飛ばしがちな読者でさえ、この台詞だけは強く記憶に残していました。
また、「もっと普通に、楽しく、弾きたいです」という終盤の言葉も、多くの読者状態で印象的な場面として挙げられていました。
読者によって受け取り方は異なりますが、作品の中心にある感情が表面化する場面として認識されていたようです。
逆に、ピアノの構造説明や指先だけで演奏を描写する場面は、多くの読者状態で読解速度が落ちる箇所として共通していました。
ただし興味深いことに、その場面は文体重視の読者からは作品の魅力としても評価されています。ある読者にとっては負荷になる描写が、別の読者にとっては作品らしさとして機能していたのです。
僕は当初、読者ごとの差異ばかりに注目していました。一つのテキストから複数の読み方がされる、その振る舞い方を見ていました。
実際に比較を続けてみると、違いだけではなく共通点も見えてきます。その作品らしさや作品の核に近い部分は、読者状態が変わっても残り続けるのかもしれません。
作品分析から読者分析へ
最初は自分の小説を分析するために作ったシステムでした。どのような言葉を使っているのか、どのような描写をしているのか、どの作品と似ているのか……。そうしたことを知りたかったのです。
分析を続けているうちに、別のことが気になり始めました。作品そのものではなく、読者の方です。自分の作品が、どのように読まれているのか、ということです。
同じ作品を読んでいるはずなのに、感想が違うことがあります。同じ場面を読んでいるはずなのに、印象に残る箇所が違うこともあります。同じ文章なのに、ある読者は余白として読みますが、別の読者は説明不足として読まれます。
小説は読者によって姿を変えます。どの読者状態でも印象に残る描写、特定の読者だけが引っ掛かる箇所、読者によって評価が分かれる場面。
そうしたものを比較していると、作品そのものだけではなく、読書という行為そのものが少しずつ見えてきます。
小説は書かれた瞬間に完成するのではなく、読まれることで完成します。
僕が作っているのは作品分析システムのはずでした。気が付けば、人がどのように小説を読んでいるのかを考えるためのシステムになりつつあります。
小説以外の文章でも使えるのでは?
本システムを僕は小説の読解に使用しています。使っているうちに思ったことがあります。
これは小説だけではなく、文章全般に応用できるのではないかということです。
例えばブログ記事です。
記事の途中で離脱する読者が多かったとしても、Googleアナリティクスなどで分かるのは基本的に数字です。何人が読んだのか、どこで離脱したのか、滞在時間はどの程度だったのか、数字としては把握できます。
一方で、なぜ離脱したのかまでは分かりません。話が逸れたのか、前提知識が足りなかったのか、説明が長かったのか、文章の流れについていけなくなったのか……。
そうした部分は数字だけでは見えにくいものです。
読者状態を定義した上で文章を読ませることで、その読者がどのような箇所で引っ掛かるのかを推測できる可能性があります。
もちろん実際の読者と完全に一致するわけではありません。
それでも、どのように読まれる可能性があるのかを考える材料にはなりそうです。
小説分析のために作り始めたシステムですが、気が付けば読書だけではなく、文章そのものの分析へと少しずつ用途が広がり始めています。小説だけではなく、ブログ記事やエッセイ、解説記事などにも応用できるかもしれません。
ただ、今のところ僕が一番興味を持っているのは、やはり小説です。同じ小説を読んでいるはずなのに、人によって全く違う感想が生まれる。
その不思議さを、もう少し追いかけてみたいと思っています。
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