京言葉にゃ、猫が住む

※本作は、依頼者の家に赴いた場面は生成AI(ChatGPT)の出力を利用しております。ご了承の上、お楽しみください。

PDFファイル版(文庫サイズ・縦書き)

「京言葉にゃ、猫が住む」


 黒猫は誰かに飼われているらしく、首に銀色の鈴を着けている。歩く度に、小さく高い音が鳴り、藤原あかりが後を着いてこないと知ると足を止め、彼女の方を振り返る。

「着いて来いってやつ……?」

 周りを見渡すが、猫を探しているような飼い主の姿は見えない。あかりと同じように大学での講義を終えた者達とすれ違うばかり。

 猫は動くことなく、じっとあかりを見つめる。

 あかりはスマホで、友達に遅れるかもとメッセージを送る。既読はすぐについて、スタンプが押され、先に入っていると返事が来た。来年に本格化する就活対策と新しいバイト先を探す作戦会議と銘打った、三条烏丸にあるとあるカフェの期間限定のフレーバーティーを味わうのは、もう少し先になった。

 あかりの足は、猫の後を追いかけるように、今出川通りから南へと歩かされた。背負ったバックパックが小刻みに揺れる。

 新緑の木々が、赤い煉瓦から通りへと木漏れ日を落とす。猫は通りの端を歩くこともあれば、小道や家の柱や屋根を伝う。あかりはいつしか小走りになり、息が上がる。

 小路を何本か通り抜けたり、大通りに出たりということを繰り返していると、猫の姿を見失った。でもどこかには居るらしく、鈴の音や短い鳴き声が聞こえる。スマホでマップを表示すると、大学や自宅とは全然違うところにピンが立っている。
「……どこ」

 あかりは唇を尖らせる。頬や背中には薄っすらと汗が広がっていた。肩が上下に動く。

 黒猫はコインランドリーのドアの前に立っている。ガラスの扉に細いひげや丸い頬を寄せる。あかりを見上げて、一つ、二つと続けて鳴く。

「中、入るん?」

 ガラス張りのドアからは中の様子が見えた。

 店内には大きなランドリーが左右に並んでおり、真ん中には長いベンチがある。そこに一人の女性が腰掛けている。白いワイシャツの先にある小さな顔は、回っている洗濯機をずっと見つめている。黒いパンツに包まれた両足を組み、パンプスが何かのリズムを取るように上下に動く。丸みを帯びた黒いショートカットも規則的に動く。

 あの女性とはぐれたのだろう。

 黒猫はあかりの言葉が伝わっているかのように、小さく頷いたような仕草を見せる。あかりは黒猫を両腕で抱えると、コインランドリーのドアを押した。ぎぃ、と音が立ち、店内の中心に座っていた女性が視線を向けた。広い額が照明を受けて、白く光る。

「あの」

 とあかりが声をかけると目が合った。黒々とした瞳は、あかりの心の奥底まで見透すかのように輝いており、彼女の瞳を通して、口元を少し引き攣らせているあかり自身の姿が見て取れた。腕に抱いていたはずの猫は、器用に腕の間をすり抜け、もうどこにも居なかった。

 女性は眉間に長い眉を寄せ、首を傾げた。ショートカットがふわりと揺れる。低いが張りのある凛とした声で、女性は訊いた。

「え、……依頼?」

 瞳よりも全然力の抜けた声に、あかりはきょとんとした。

「え、何がですか?」

 女性の瞳から力が抜ける。口元が微かにへの字に曲がる。

「え、ちゃうの?」

「ちゃいます」

「……せやったら、どうしたん? え、あ、座る?」

 女性は細い腰をベンチの奥へと動かす。

「え、あ、ありがとうございます」

 空いたスペースに、あかりは腰を下ろした。座ってから思い出した。

「あ、いや、猫が」

 あかりの腕を抜け出していた黒猫はランドリーの端で香箱を作っている。

 女性は口角を上げる。

「ああ、うちのや。わざわざ、おおきに。私は三条澪、いいます。あっちは、十七代目の番猫」

「藤原あかりです」

 女性は猫に向けて声をかけるが、猫は香箱を作ったまま動かない。片耳を上げたかと思えば、細長い瞳を女性に向けて、短く高い鳴き声を返すだけだった。

 あかりは実家で飼っていた猫のことを思い出し、口元が緩む。

 澪は恥ずかしげに笑った。

「……まぁ、こんな感じやし、よぅ逃げられるってわけ」

 ランドリーが、乾燥が終わったらしく高い音を発した。澪は腰を上げ、ランドリーの中から布団を取り出すと近くに置いてあった籠に放り込んだ。女性は籠の中に置いてあったハンドバッグを肩に掛ける。

 すらりとした高い位置にある顔が、あかりを覗き込むように近づいてくる。

「時間大丈夫なん?」

「時間? あ……」

 あかりは急いでバックパックからスマホを取り出す。現在の時刻や今日の日付や木曜日などという情報の下に、いつの間にか、友達からメッセージが何件も届いていることを知らせる通知が並んでいる。二つ並んでいる期間限定の紅茶は、お店の写真で見た時と変わらない見た目をしている。持ち帰っておく、という連絡が続き、あかりは急いで連絡を返す。

 頭上から、澪の遠慮した声が降ってくる。

「お礼とお詫びを兼ねて何かご馳走するわ。ええの貰うてん」

 見上げると、目が合う。先ほど見た時もそうだったが、黒々としているが、それだけでまとめられない不思議な色をしている。

「……ええのって?」

 澪はあかりが通う大学の側にある和菓子屋の屋号を口にした。大学生のあかりには手の届かない値段の羊羹や和菓子が並んでいる。あかりの顔が明るくなった。

「ええんですか?」

「ええよ」

 澪は籠を両手で持つと歩き出す。パンプスの踵が軽やか音を立てる。あかりは店のドアを開ける。二人の隙間を、黒猫が我先に、と通り抜ける。あかりには目もくれずと歩き出す。塀や屋根を越えると瞬く間にあかりの視界から居なくなった。

「……また迷子になりません?」

「ええんよ」

「三条さんは良いかもしれませんが、見つけた人が困りますよ」

「ここらへんやったら有名人やから、大丈夫やって。それに」

「それに、なんですか?」

「ちゃんと帰ってくるから」

「もし帰って来なかったら、どうするですか?」

 澪は楽しげに笑う。高い声が人が少ない小さな路地に響く。

「人様に見られたくないことでもしてるんやろ」

「そうなんでしょうか?」

「そりゃあるやろ。私達人間にもあるんやから。猫にも一つや二つぐらいあるって」

「……そうかもしれませんね」

 釈然としなかったが同意を示すと、澪は軽い調子で声をかけてきた。

「藤原あかりさん」

「何ですか、急に」

「そんなに生真面目やと、就活失敗すんで」

「不真面目な三条さんは、就活上手くいったんですか?」

「私? 私は、そんなことしなくてええんよ」

「はい?」

 そんなことを話していると、澪は家と家の隙間にある細長い通りへと入った。

「三条さん、どちらに?」

「こっちやで」

 引き戸の前に澪の姿があった。戸には、助手募集、他要相談と書かれた張り紙がある。

「ちょっとこれ持ってて」

 あかりは言われるがまま、籠を持った。

 ハンドバッグから鍵を取り出し、澪は引き戸の錠を解錠した。ガラガラと音を立てて、澪は引き戸を開けた。

「ただいま」

 おかえり、という声は返ってこない。右手には土間が広がり、左手には少し高いところに和室がある。和室の奥の方に、居間らしく丸い机や座布団が置いてある。ずっと奥に階段が見える。二階に誰が居るのだろうか。

「どなたが居られるですか?」

「うん? いや、一人」

「さっき……」

「あれ、言わん?」

「言いません」

「そっか。そのへんで寛いで待ってて。これ片付けくるから」

 澪は和室のテーブルの方を指すと自分は籠を持って二階へと上がった。

「お、お邪魔します……?」

 あかりは上擦った声を上げて、スニーカーを脱ぎ、揃えて置く。机の前にある座布団に座っていいのか分からず、土間から上がってすぐの畳に正座をする。

 高い天井から、澪が二階へと上がる階段の軋む音や歩いている音が落ちてくる。どこかの戸を開けたらしく高い音が続く。

 出入り口に貼られていた助手募集という貼り紙を思い出す。就活が始まるとなれば交通費やスーツ代など色々と入り用になるのは、先輩達から聞かされた。融通が効いて、稼ぎやすいバイトがあれば良いのだが……。

「こっち座り」

 澪は戻ってきたかと思えば、居間に顔を出し、あかりに一声かけると別の所に姿を消した。

「こっちって……」

 独り言のはずが、障子の向こうから澪の声が返ってきた。

「机の近くや」

 あかりは肩を上下させ、静かに机の側に置かれている座布団の上に移る。二階へと続く階段の障子だけではなく、土間から死角となる位置にも引き戸があった。澪の口笛や鼻歌はそちらから漏れ出ていた。

「何、飲む?」

「何があるんでしょうか?」

「紅茶、珈琲、お茶ぐらい?」

「三条さんのおすすめは?」

「私やったら、これは、お茶かな。熱いお茶で、ゆっくり、ちゃんといただきたいやつ」

「でしたら、お茶でお願いします」

 澪が居間に再び姿を見せた時、その手には盆がある。二人分の湯呑みは湯気が立ち、隣に並べられている丸い皿の上には、長方形に切られた羊羹が二つずつ並んでいる。

 あかりの前に湯呑みと皿が置かれる。皿の上には小さなフォークがあった。澪はあかりの隣に腰を下ろした。

「どうぞ」

 光を受けて輝く様は、水晶のように輝いて見えた。バイトのことや澪のとは瞬く間に頭の端へと追いやられ、あかりはすぐに手を合わせる。

「ありがとうございます。いただきます」

「私には感謝するんやのうて、これを用意してくれた人にしいや」

 柔らかく、上品な甘みに、あかりは頬を綻ばせる。湯気の立つ茶に、ゆっくりと口をつける。甘みが口の中に広がる。

 落ち着いてくると、頭の端に追いやっていた数々の疑問が蘇る。

「あの、三条さん、訊きたいことがあります」

 声をかけると澪は、初めて会った時と同じように、あかりを瞳を見つめる。その瞳は、あかり達の前に置かれている羊羹と同じような色合いで輝いていた。澪自身のこともそうだし、どうして彼女が貰ったのかも分からない。謎が謎を呼び、あかりは黙って、澪の瞳を見つめ返していた。

「新しいバイト先を探しているやろうし、助手の件から、話そうか」

「お願い……します? ん? 私、言いました?」

「顔に書いてあるんよ。これから就活で忙しくなるし、それまでに何かええバイトないかな、って」

 あかりはバックパックからスマホを取り出し、自分の顔を確認する。どこにもそんなことは書いていないように見えるのだが、澪にはそんなふうに見えているのだろうか。

「そんな見ても、あんたには分からんで」

「どうして三条さんには分かるんですか?」

 答えてくれるかどうかはあまり期待していなかったのだが、澪は口を開ける。

「それは」

 その時、玄関が開いた。あかりと澪の視線が音のした方に移る。

「三条さん、いはる?」

 薄緑の和服を着た一人女性が立っている。手には、何かを包んだ風呂敷を持っている。

 澪は、あかりと出会った時と同じ言葉を口にした。

「依頼やな」

 あかりの時とは違う、淀みも戸惑いもない、言い切った言葉。女性は静かに首を縦に振った。
 

 ※
 

「……後にしようか?」

 女性は机とあかりとを見比べ、そんなことを口にした。

 澪は、あかりや小さく分けた自分の分の羊羹を見ながら、首を横に振った。

「いや、ええ」

「ええって、いや、なんか私が居て良い雰囲気じゃなくないですか?」

 あかりが反射的に口を挟むと、澪は湯呑みに口をつけてから、さらりと言う。

「表の貼り紙、見たやろ?」

 女性は、あかりを見て、あぁと納得したように言葉を零し、微笑む。

「助手さんなんやね」

 違うとは否定しにくい柔らかな声にあかりが言葉を探していると、澪が訂正を加える。

「見習いの、な。人の話は聞くし、真面目やし、役立つと思うてる」

「褒めてます?」

「半分ぐらいは」

「半分……」

「せやったら、お言葉に甘えさてもらうわ」

 女性は小さく笑い、土間で草履を脱いだ。白い足袋が、畳を踏む。澪の前に座り、丁寧に頭を下げる。

「急に押しかけて堪忍」

「急やない依頼なんてないやろ」

「せやね。私、白川千景いいます」

 帯締めだけが明るい山吹色で、そこにだけ少し意志の強さが出ているように見えた。涼しげな目元をしているが、膝の上に重ねた指先だけが落ち着きなく動いている。

 澪が口火を切る。

「それで?」

「盗まれたんです」

「何を?」

「……いえ、盗まれた、いうたら、ちょっとちゃうのかもしれません」

「どっちや?」

「なくなった物があるいうんが、丁度ええのかも。お金や貴重品やないんやけど」

「何に値をつけるかは、その道のプロに任した方がええで」

「なくなっただけやのうて、戻ってきた物もあるんです」

 口を挟まないようにしていたあかりだったが、思わず身を乗り出した。

「戻ってきた?」

「せやねん」

 千景は脇に置いていた風呂敷の包みを解く。中から出てきたのは、布張りの小さな箱と、紙箱に入った和菓子だった。

「このお菓子、ここ三週間、毎週木曜の夕方にうちへ届くんです。届けるいうても、玄関の内側に置いてあるだけですけど」

「内側?」

 あかりが訊き返すと、千景は頷いた。

「鍵は掛けてます」

「合鍵とかは……?」

「持ってる者に連絡入れたけど、誰もやってへんのよ」

 警察に、とあかりが助け舟を出そうとすると、澪がもう一つの小さな箱に視線を向けていた。

「そっちは?」

 千景は布張りの箱を開けた。中には、生成り色の布が入っている。ストールやマフラーよりも、風呂敷や手拭いといった物に近いように、あかりには見えた。布地も皺一つない。

 澪が尋ねる。

「帛紗ばさみか?」

「そう。これは亡くなった母の物です。茶道の稽古の時によう使うてて……。先週、家の中でなくなってるのに気ぃついて、それで、今日の昼に戻ってきました」

「クリーニングに出したとかそんな訳でもなく?」

「端の方がほつれていたことはほつれていたんやけれど、戻ってきたら、そこだけきれいに直ってたんよ」

「他には?」

「仏間の花が替わってたり、お茶碗の位置が変わってたり。掃除までされてる日もあります」

 あかりは息を呑んだ。

「それ、ちょっと怖ないですか?」

 千景は無言で首を縦に振る。

「ただ、でも、荒らされてる感じやないんです。むしろ、丁寧すぎるぐらい丁寧。せやから余計に気持ち悪うて」

 澪は羊羹にフォークを刺したまま、しばらく黙っていた。あかりが訊く。

「警察に相談は?」

「まだ……。そこまで大事にしたないんよ。近所に知れたら、母のところに出入りしてた人らの耳にも入りますし」

「せやから、うちに来たんや。見当は?」

 千景の目が、ほんの少しだけ伏せられた。

「一人、います」

「誰なん?」

「西嶋夏帆」

 その名を口にする時だけ、千景の声は硬くなった。

「理由は?」

「母のところで、手伝いみたいなことをしてた子で、私より二つ下で、昔からよう来てました」

「その子に、鍵渡してた?」

「母が。茶会の準備とか、花の入れ替えとか頼む時があったさかい」

「今も返してもろてへんの?」

「返してもろてます。お通夜とか葬儀の後で、ちゃんと」

 澪はそこでようやく頷いた。

「なるほどな。それでも、あんたはその子が嫌がらせしてる思うてる」

「嫌がらせ、いうか……」

 千景は言葉を探すように口を閉じた。

「私には、あの子が何をしたいんか分からへんのです。謝りたいんか、責めたいんか、まだそこに居るつもりなんか」

「最後にその、西嶋夏帆って子と話したん、いつ?」

「母の四十九日の後です」

「何て言うたん?」

「何て……。それなり前やし、ちゃんとは覚えてないんやけど?」

「一字一句、できるだけそのまま」

 澪の声は静かだったが、そこだけ少し強かった。

 千景はしばらく考えてから、ぽつりぽつりと口を開く。

「……母がおらんようになって、もう今までみたいにはよう頼まへんし、あんたも自分のことあるやろうし、うちはもう間に合うてますさかい、気ぃ遣わんといて、って」

 あかりは何気なく頷きかけて、途中で首を傾げた。

「それって、普通に、もう大丈夫です、ってことですよね?」

「私もそう言うたつもりです」

 千景は少しだけ唇を噛んだ。

「その時、夏帆は、分かりました、言うて、それっきりです」

「ほんまに、それっきり?」

「はい」

「連絡は?」

「してません」

「なんで?」

 澪はすぐに重ねた。

 千景はそこで初めて、少しだけ不機嫌そうな顔をした。

「向こうが来はらへんのに、こちらから追いかけるのもおかしな話とちゃう?」

「違うかどうかは知らんけど、あんたはそうした」

「……そうです」

「それで、今になって気になる、と」

「気になります」

 千景は真っ直ぐに澪を見た。

「母の物を勝手に触られるのは嫌です。けど、それ以上に、何を考えてるんか分からへんのが嫌なんです」

 澪はようやく羊羹を口に運んだ。

「引き受けてもらえますか?」

「こんだけ聞いて、引き受けんわけにはいかんやろ」

「ありがとうございます」

「善は急げいうし、行くで」

「行くって?」

「あんたの家」

「今から?」

「せや」

「え、こういう時って、西嶋夏帆さんの所じゃないですか?」

 あかりが声を上げると、澪は当然のように頷く。

「木曜なんやろ。今日やん。それに、こんな大所帯で押し掛けたら、バレる」

 もう夕方に差しかかっていた。

「準備とかあるし、先に出て、待ってて。すぐ行くし」

 千景が出ていくと、澪は手早く羊羹を食べる。ゆっくりと羊羹を食べるあかりに、澪が声をかけた。

「藤原あかりさん」

「また急にフルネーム」

「行くで」

「私も行くんですか?」

「いてもええし、おらんでもええ」

「どっちですか」

「決めるん、そっちやで」

 澪は立ち上がると、ハンドバッグを肩に掛けた。

「ただ、一人より二人の方が、人はよう喋る」

 その言い方が、あかりには妙に引っ掛かった。

「……それ、助手扱いしてます?」

「まだ見習いにもなってへん」

「じゃあ何ですか」

「そのへんにおる真面目な大学生」

「雑やなぁ」

 ぼやきながらも、あかりは立ち上がっていた。


 ※

 
 白川家は、澪の所から奥まった通りに位置していた。格子戸のある二階建ての町家で、古いが手入れは行き届いている。

 千景が足を止め、戸を開けた。

 土間の奥、上がり框の向こうに、人影があった。仏間に向かっていた女が、ゆっくりと振り返る。

「……どちらさま、ですか」

 落ち着いた声だった。けれど、視線だけが千景の顔を見つけた瞬間に止まった。

「三条澪」

「……三条?」

「白川さんのお友達。さっきそこでおうてん」

 女は澪ではなく、千景を見ていた。一瞬だけ、顔から色が抜けたように見えた。

「……白川さん」

「やっぱり、夏帆、あんたやったんやね」

 千景の声は低い。怒っているというより、もう怒る前に疲れてしまったような声だった。夏帆は否定しなかった。

「……はい」

 あかりは思わず仏間の方を見た。花は新しく、水も替えられている。灰も崩れていない。誰かが勝手に入った場所のはずなのに、荒らされた感じがない。むしろ、ここだけ時間が止まらないように手を入れられている。

 澪はその仏間をちらりと見て、軽く息を吐いた。

「ああ。あんた、終わらせへん側やな」

 唐突な言い方に、あかりは澪を見る。夏帆の指先が小さく動いた。

「……何の話ですか」

「これ」

 澪は顎で仏間を示す。

「嫌がらせにしては、丁寧すぎる」

 夏帆は答えない。

「菓子置いて、花替えて、水替えて、灰まで整えて。嫌いな家にすることやないな。面倒やし」

 軽い言い方だった。けれど、その軽さのせいで、逆に夏帆の沈黙が目立った。あかりには、それが供養の話なのかと思えた。だが澪の言う「終わらせへん側」という言葉は、手を合わせることとは少し違う場所を指しているようだった。

「木曜の夕方」

 澪が言う。

「来てるやろ」

「……はい」

「なんでその時間なん」

「……お稽古の日、だったので」

「誰の」

「お母さんの」

 澪は、ほら、とでも言うように肩をすくめた。

「続きや」

 夏帆の唇が少し開く。

「違います」

「せやな。違うな」

 澪はあっさり言った。

「頼まれてたことの続きやのうて、頼まれてた時の自分の続きや」

 夏帆は黙った。千景が息を呑む音がした。

「最近、この家入ってるん、あんたやな」

「……はい」

「鍵は」

「預かってました」

「返したんと違うの」

 千景が低く言う。夏帆は少しだけ目を伏せた。

「お母さんから預かった分は、返しました。けど、茶会の道具の出し入れ用に、もう一本……。返して、と言われてませんでした」

「言われてへんかったら、返さんでええと思うた?」

 千景の声が硬くなる。夏帆は答えない。

 澪が間に入るように、少しだけ手を上げた。

「そこやな」

「そこ?」

 あかりが思わず聞き返すと、澪は千景を見る。

「白川さん、最後に何て言うたん」

 千景はすぐには答えなかった。膝の上の指先が、着物の布を押さえる。

「……母がおらんようになって、もう今までみたいにはよう頼まへんし、あんたも自分のことあるやろうし、うちはもう間に合うてますさかい、気ぃ遣わんといて、って」

 澪は頷く。

「夏帆さんは、それをどう聞いたん」

 夏帆は、仏間を見た。

「このままでええ、いう意味やと」

「このまま?」

「はい。無理に変えんでええ。お母さんがしてはったことを、急に崩さんでええ、って」

 あかりは言葉を失った。普通に聞けば、もう来なくていい、という意味に聞こえる。少なくとも、あかりにはそう聞こえる。けれど夏帆の声には、無理にそう思い込んだ人の硬さがあった。

 澪が千景を見る。

「白川さんは」

「……もう来んといて、です」

「言うてへんな」

 千景は顔を上げなかった。

「言えへんかったんやな」

 澪の声は責める調子ではなかった。ただ、そこにあるものを指で押すみたいな言い方だった。

「はっきり言うたら、ほんまに終わるし」

 千景の目が揺れる。夏帆も顔を上げた。

「こっちは、終わらせたいのに終わらせる言葉を避けた。こっちは、終わらせたくないから終わらん意味で受け取った」

 澪は仏間を見る。

「同じ言葉に、別々の願いを入れたんやな」

 あかりはもう一度、花と水と灰を見た。さっきまで気味が悪かったものが、別のものに見えた。勝手に荒らされた場所ではない。終わったはずの場所が、誰かの中ではまだ終わっていなかった。

「ズレや」

 澪はそれだけ言った。

 長い沈黙が落ちた。千景はゆっくり顔を上げ、夏帆を見る。

「……来んといてください」

 声は小さい。けれど、さっきよりもはっきりしていた。

「もう、家のことは自分でやります」

 夏帆はすぐには頷かなかった。視線が一度だけ仏間へ動き、それから千景へ戻る。

「……分かりました」

「鍵も、返してください」

「はい」

 夏帆はバッグから小さな鍵を取り出した。千景はそれを受け取る時、少しだけ目を閉じた。

「……お願いします」

 澪は何も言わなかった。あかりも何も言えなかった。花も、水も、灰も、さっきと同じ場所にある。ただ、それを整えていた手だけが、ようやく離れたように見えた。
 

 ※


 あかりの前に、またしてもあの猫が姿を見せたのは、五月の大型連休の中日だった。自分が助手として澪の元で働けるのかどうかなど訊けずに分かれ、うやむやとなった。それきり連絡がないので助手としては務まらなかったのだろうと思っていた。

「げ」

 誰に似たのか、そんな言葉を口にして、あかりは猫を見つめる。猫はあかりを見つけると甘い声で鳴き、そそくさと歩き出す。鈴が鳴る。あかりはそっと近づき、猫を抱え上げると歩き出す。

「勝手に動かれたら困るんよ。今日は、ちゃんと用事あるから」

 あかりはそう言って、澪の家へと向かう。彼女の家を訪れるまで色々な通りを歩いたはずなのだが、あかりの足は不思議と迷うことはなかった。

 澪の家の引き戸には、あの張り紙はなかった。別の誰かが、澪の助手を務めるのだろう。引き戸を開けようとしたら、中から開いた。見知った顔が二つ、出てきた。家主である澪と、この間、彼女に依頼をした和服の女性。

「え、あ、えっと、白川さん?」

「あら、あかりちゃん。この前のお礼、持ってきたし、いただいといて」

 あかりの腕の隙間から猫は抜け出し、どこかへと歩いていった。千景はあかりの側を通り抜ける。すらりとした背中を、あかりは目で追った。

「早速、いただかな損やな。上がり」

「え、いや、私、用事があってですね」

「すぐや終わるし安心し」

「ほんまですか?」

「嘘ついてどないすんの?」

「……確かに?」

「あんたも私に訊きたいことあるんやろ?」

 あかりは答えず、澪の宅に足を踏み入れた。

 机には、大きな箱が置いてあった。箱には紙が巻かれ、御礼という言葉と共に三つ折りにされた紙も挟まっている。

「それ、何ですか?」

「御礼や御礼。この前の事件を解決した」

 澪は三つ折りにされた紙を抜き取り、目を通すと、すぐに箱の封を切る。中には、また箱が入っていた。開けると、見たことのない茶筒が入っていた。茶筒にはどこかの茶屋の名前が達筆で書かれてあり、金の文字が輝いている。それから、和菓子も出てきた。

 澪は開け放った障子の向こうで茶を入れる準備をしているようだった。横に長い台所には、色々な物が置かれていた。

「先に話よし」

「え、あ、先……。助手のことです」

「その件やったら、採用やで。適当な時に呼ぶか、来よし」

 はいこれ連絡先、とどこかに置いてあった名刺を机に滑らせた。三条澪と書かれたすぐ下には、携帯電話の番号が書かれていた。

 呆気なく言われ、あかりは目を丸くするより早く疑問を口にした。

「どうしてです?」

「あの張り紙、何て書いてあったか覚えている?」

「助手募集、他要相談でしたっけ?」

「せやせや。で、要相談した結果、採用」

「簡単過ぎません?」

「猫に好かれてんにゃなったら、大丈夫やろ」

 澪は笑って、二つの湯呑みを机に置いた。そう言われると、それ以上は追求できなかった。それから澪は、

「これ、今回の報酬」

 と言って、封筒をあかりの方へと滑らせた。

「手渡し、なんですね」

「口座知らんしな」

「教えましょうか?」

「いやええわ。そんな毎月依頼あるわけちゃうし」

「見てもいいです?」

「どうぞ」

 封筒の中を覗くと、何枚もの紙幣が入っていた。あかりの背中に冷たいものが走った。報酬としてそれが適切な額なのかは、全くあかりには分からなかった。

「……あの、三条さん。探偵ってそんなに儲かるんですか?」

「さっき言うたやろ」

「……え、いや、だからといって、この額は……?」

「白川千景の気持ちや。黙って受け取り」

「ありがとうございます」

 あかりは渇いた喉を潤すために、ゆっくりと湯呑みに口をつけた。熱い茶は、香り高く、ゆっくりと口の中に広がった。〈了〉

 


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