「五分以内」
十四時というランチタイムに遅い時間、ティータイムが終わった頃の時間でも、会社近くの喫茶店はまだランチタイムを続けていて、そういうところを私は気に入っている。
狭い店内は少し前まで怒涛に忙しかった余韻が感じられる。やはり春は弊社に限らず、どこもかしこも忙しいらしい。入って左手に並んでいる四席のテーブル席は綺麗だけれど、右手に並んでいるカウンターには空になったティーカップやグラスが置かれたままになっていて、吸い殻が入ったままの灰皿もある。カウンターの奥にかけられた暖簾の向こうから勢い良く流れる水の音、ガチャガチャと食器がぶつかる音。私の入店に気づいた店員さんの声も心なしか勢いがあって、普段よりも威勢が良い。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「一人です」
「空いているところにどうぞ」
適当に空いているテーブル席へと座る。空腹を覚えていたのはもうずっと前のことのように思えた。身体が空腹に慣れてしまったようだった。でも職場を離れて、椅子で一息つくと、お腹が減っていることを思い出す。
出版社勤務の編集者に、お昼休憩というのがあるようでない。その時間帯に、担当している作家からの連絡や週刊誌の原稿のチェックが入ると、そちらを優先する。私のような女でも、同期の男だろうと関係ない。おにぎりやパンなど片手で食べられる物を好んで食べる。空いた手でページを捲れるし、ペンも握れるし、スマホで連絡を返すことだってできるから。あるいはすぐに食べられるもの。ラーメンとかうどんとか蕎麦とか麺類、カレーや牛丼も候補に入るだろう。
一律して考えられるのは、お昼休憩だから仕事を中断して食事を摂るというのではなく、仕事の間に食事を摂っているということ。
全てのランチタイムでそうしているわけではないし、常にそうしたいわけでない。締切が近い時の動きが染み付いてしまっているだけだ。多分だけれど。
今の私の手には、ランチが書かれたメニューがある。日替り定食、カレー、サンドイッチのセット……。裏面を見ると、コーヒーや紅茶などの飲み物が書いてある。文字を追っていると片方の手が空いているのが不思議な気分になって、少しずれた気がする大きな黒縁眼鏡を掛け直す。
お水とおしぼりをテーブルへ置いてくださった店員さんに、メニューの一番上を指して訊く。
「済みません、今日の日替わり定食ってなんですか?」
「チキン南蛮とエビシュウマイです」
思ってもなかった組み合わせに、店員さんの言葉を繰り返す。
「チキン南蛮とエビシュウマイ?」
店員さんの言葉に、タルタルソースの香りが思い出され、衣のザクザクとした食感が口の中に広がった錯覚を覚え、思わず腹の虫が鳴る。
店員さんはそのメニューに違和感を覚えている様子はなく、淡々と答えてくれる。
「はい、そうです」
「どちらか、ではなく?」
チキン南蛮定食であれば全然想像できる。ただそこに、エビシュウマイを足されると想像できなくなる。シュウマイがメインを張っているというのが想像しにくい。あの小さく大体において二つ並んでいる、頂点に可愛げなグリーンピースを一つ乗せた白い物をメインで食べることはない。
「はい、まぁメインはチキン南蛮です」
「脇にエビシュウマイって感じです?」
「そうです」
そう言われると途端に想像できる。千切りキャベツとチキン南蛮の脇に添えられたエビシュウマイの姿をありありと思い浮かべることができる。
「それじゃ、それで」
「ご飯の量、どうします?」
「普通盛りでお願いします」
「食後のお飲み物はどうされます?」
「アイスコーヒーでお願いします」
「かしこまりました」
日替わり一丁、と店員さんは暖簾の向こうで洗い物を続けている人に声をかける。はいよー、と少し気の抜けた声が返ってきた。蛇口が閉められたようで、水が勢い良く流れる音も食器がぶつかる音も聞こえなくなった。
静かになって、厨房のどこかに置いているラジオから穏やかな声が聞こえてくる。
お水を飲みながら、社用のスマホを確認する。午前中に多くの返事を書いた代償のように、何通ものメールが届いている。印刷会社の進捗連絡、他部署の打ち合わせの日時、部署内の議事録、自分の抱えている原稿の締切のリマインダー……。全てに目を通し、返事を送ることはできたけど、木曜日のお昼間にすることじゃないだろうと自分の甘やかすことにした。
日替わり定食が待っている。たっぷりとかかったマヨネーズとチキンを、白ご飯と一緒に食べるという幸せが待っている。お口直しに、熱々のシュウマイを食べるのも良い。ぷりっとしたエビの食感が良いアクセントになってくれるだろう。
ただメールを確認してしまうと、急ぎで返した方が良いものがあるのではないか、と社会人らしいことを考えてしまう。とんとんと力を込めて爪先で叩く。スマホの画面が明るくなり、待機画面にはメールが何件も届いていることを知らせる通知が表示されている。
本当に急ぎのものは電話で来るということを知っているし、こんな陽の高い時間から緊急の連絡が来ないことも知っている。知っているけれど、急ぎの電話も緊急の連絡もないに越したことはない。幸い、まだ定食は届いておらず、私には時間が余っている。画面に何件も並んでいる件名の文章から、どれを今の内に読まないといけないのか判断する。
選ぼうとした私の判断を遮るように、厨房から肉を揚げる音が聞こえてきた。
メールが送られた時間は、どれも午前十時とか十一時とか正午過ぎとかで、きっと昼食を食べる前にひとまず送っていこうというものだろう。なら、私だって昼食を食べた後でも良いだろう。
と思って、スマホをしまおうとしたけど、社内のメールだけはざっと確認する。私がメインで動いているものじゃないけど、念の為確認してほしいと送られているものがある。その確認だけでも済ませた方が良い。新人や後輩が確認しているのに、私の確認が遅くて動くのが後になるというのは士気に関わる。
メールの確認をしていると、テーブルに影が落ちてきた。店員さんが両手に持っていたトレーを、私の前に置く。
「日替わり定食です」
顔を上げてお礼を口にしたら、驚きがそのまま音になっていた。
「ありがとうございます、いやぁ、凄いので……」
「こちらのスープはトマトスープです。どうぞ、ごゆっくり」
私の前には、重箱の一段目があった。お重の左手には白ご飯が入ったお茶碗があり、スープもある。お重の中は仕切りがいくつか用意されており、四つに区切られている。手前の一番広いスペースに、かりっと揚げられたチキン南蛮がごろごろと入っている。甘酢とたっぷりのタルタルソースがかけられていて、食欲をそそる香りに辺りに漂う。真ん中の小さなスペースにはお漬物。奥にある二つのスペースには付け合わせのサラダとエビシュウマイ。二つ並んでいるエビシュウマイは、私が想像していたより大きいように見えた。
会議、対面や電話での打ち合わせ、自分の原稿の取材、締切のリマインドや進捗の確認が必要なことがあり、定時に上がれることはほぼない。むしろ定時が過ぎてからが本番だ。何時に帰れるか分からないし、いつ次の食事にありつけるか分からない。ここでがっつり食べてこれからを乗り切ろう。
※
どれも美味しかった。チキン南蛮の衣はさくっとしていたし、噛んだ瞬間に肉汁が口の中一杯に広がった。ヘビーな感じを甘酢と香料野菜をふんだんに使ったあっさりとしたタルタルソースが和らげてくれる。熱々のシュウマイの中にはエビが沢山入っていた。濃い味に飽きたところで飲むトマトスープは優しさに満ちていた。
一つ失敗があったとすれば、空きっ腹に揚げた鶏肉とかエビとかを突っ込んだところだろう。美味しくはあったけれど、いつまでもお腹に残っているような重苦しさがあって、中々に堪えた。二日酔いとは違う体内の苦しさを覚える。頭痛も吐き気もないあたり、タチが悪い。不快感が、ずっとお腹の中に鎮座していた。
仕事は私の都合など待ってくれず、全ての仕事が推し測ったように一定のタイミングで訪れる。区切りの良いところまでと考えるとずっと区切れなくなりそうだったので、二十時に切り上げた。普段なら職場の休憩室に置いてあるコーヒーや誰が買ってきたのか分からないお土産のお菓子を口にしながら、もう一踏ん張り、というところだったけど、大人しく帰った。そういう気分じゃなかった。私としては珍しく早い時間に退社したのだけれど、早く退社したし何か軽く飲もうか、という気分にもなれない。
二十分ぐらい電車に揺られて、まっすぐ家に帰る。就職を機に引っ越したマンションは、職場から遠い。ただ二つの路線の中間点に建っているので、色々な所に足を伸ばしやすい。この二つの路線はいずれも職場の最寄りを通っている。職場の最寄り駅はハブ駅となっていて、何本もの電車が通り、何本もの線路が絡み合っていて複雑な路線図を作り上げている。
職場の近くに引っ越すかどうかと二年毎の更新の度に思う。ただ今より職場に近くなると、私の性格上今よりも早い時間に出勤したり、遅い時間に退勤することも有り得る。職場からアクセスは悪くないけれど遠いところにあるマンションを、私は気に入るようにしている。存外悪くない気がする。
職場と家の往復ばかりで周りに何があるとか詳しく知らないけど、とりあえず近所に大きな酒屋があることだけは知っている。品揃えが豊富で、二十四時頃まで営業しているので、多分飲食店も近くにあるのだろう。そうじゃなかったら、酒屋だけ遅くまで開けている理由がない。
まっすぐ家に帰ってきて、何かを期待するように冷蔵庫を開けてみたけど、そこには、いつも通りビールと冷酒が入っている。台所の引き戸や棚を見てみるも、すぐに食べられるものはなかった。あることにはあったけれど、ベーコンやウィンナーの残りとか肴になるようなものばかりで、どれも今の気分じゃない。インスタントの味噌汁もスープもない。辛うじて白米はあったけれど、美味しく食べられるまでに時間を要する。
いつか酔っ払って全然違うところに食品を置いたのではないかと思って、資料が詰まっているダンボールの山を通り抜けて、リビングからベッドルームへと向かう。普段から見慣れているはずの白を基調としたベッドルームは、自分でもびっくりするぐらい殺風景に感じられる。こういう時、自分が外食をメインにしていて、家には寝に帰ることだけというものが、すごく刹那的なようで、ある種の寂しさを感じる。休みの日も家にいないことが多いので、これで良いと思う節が強かったけどそろそろ改めた方が良いのかもしれない。
クローゼットの中とかを確認してみたけど、当然そんなところに私が今食べたいものはない。
「……ないわね、何も」
財布と私用のスマホを小さなショルダーバッグに入れて、家を出る。スマホで調べるとスーパーもドラックストアも歩いていける距離にあって、まだ営業している。
軽く食べられるもので調べると、うどんとかお粥とかおにぎりとかサンドイッチが表示された。どれかは売っているだろうと思って、目的地へ向かう。
二十一時のスーパーでチューブの生姜と卵のパックを買い物カートに入れて、広い店内を歩く。
大きな冷凍ケースの前で立ち止まる。中が見えるように全面ガラス張りになっている。冷凍のねぎを籠に入れて、近くに並んでいたうどんと蕎麦を見る。一旦、ケースのドアを閉めて、どちらを買うか悩む。乾麺という選択肢はない。お湯を沸かして、茹でて、という時間を待てない。白ご飯を炊かなかったと同じだ。
多分、食事を作るのに慣れている人はお米を洗って炊く準備をしてから買い物に出かけるのだろう。ただ私は明日も仕事で、もうとにかく軽く何か食べて寝たい。寝る前に食べない選択肢を採っても良かったのだけど、空腹で寝られなくなるのはもっと困る。
ケースの中には色々な冷凍食品が並んでいて、焼きおにぎりやベーグルもありかもしれないと思う自分がいる。
ケースに反射して店内の様子が窺い知れる。私の側を通り過ぎようとカートを押す意外な女性を見かけた。
少し色の暗い、場所によっては黒に見えそうな茶色のミディアムヘアーでも、柔らかく甘く顔立ちはしっかり見える。場合によっては幼く見える顔立ち。幼い顔立ちを自覚しているのかこんな夜遅い時間でもメイクは崩れることない。白いパンツと襟元のすっきりとした同色のシャツはワントーンにまとめられていて、華やかに見える。白いすらりとした首元が、この時期特有の忙しさを遠いところで置いていっているような気楽さを感じられる。
一瞬間違えたかと思った。けど、部署は違うけど同期の顔を忘れることはない。須藤あかりだ。一瞬別人かと思ったのは、弊社の事務員が着用しているスプライトの黒いベストとスカートを身につけていないからだろう。会社で見かける時にコンタクトだけれど、銀縁の細いフレームの眼鏡をかけているから、見間違えたと思ったのかもしれない。
「あ」
そういう微妙な変化を見る時間があって、遅れて声が出た。女性の歩く方へ振り向くと何人かの視線と合った。唯一見知った女性の視線もある。立ち止まった女性は高いヒールを履いていて、この時間に似合わない高い音をスーパーに響かせる。
私の声に反応した女性は社会性を最低限用意しようとして失敗したらしく、眼鏡の奥に描かれている少し細い両眉を寄せた。かと思えば、すぐに社会性を取り戻して丸い目を一段と丸くして微笑を作る。でも、私と会うことを想定していなかったらしい、はっきりとした驚きが、彼女の艶やかな唇から零れた。
「……意外」
あかりの反応に、私はすぐに同じような反応を返す。
「こっちの台詞なんだけど?」
あかりは小さく首を傾け、幾分か驚きを引っ込ませた声で確認する。
「そう?」
「そう」
「休み?」
「有給」
「この時期に? 新卒の子とか入ってきてないの?」
「今年度も事務員は少数精鋭らしいわ。何人か優秀な人、いない?」
「こっちだって忙しいんだけど?」
あかりの視線が私の持つカートへと落ちた。外交的な微笑と言葉で、あかりは会話に終止符を打つ。
「そうね、お互い頑張りましょう」
同期だけれど、部署が違えば全然会うことはない。顔を合わせる時は大体が領収書のことや残業や勤怠のこととかなので、一度会えれば十分で、二度も三度も会いたくない一人である。会話を手短に終わらせる習性が、私とあかりの間にはあるのかもしれない。
でもそれは社内に限ったことなので、スーパーってなると話は変わってくる。
私のカートとは違い、あかりが手にしているカートの中には、今が旬ですと書かれたポップの下に置いてあった筍や春キャベツがある。大きなパックに入った鰹節とか一丁の豆腐もある。家で料理をする人らしい食材が、そこにある。
普段だったら自分で食べる物の選択は、自分でするのだけれど、自分で作るとなるとちょっと話が変わってくる。熟練者の意見を尊重したい。私は冷凍のケースに入っているうどんと蕎麦を指し示す。
「どっち派?」
「はい?」
「蕎麦かうどん」
「パスタ派かな」
第三の選択だったけど、パスタはオリーブオイルとか唐辛子とかにんにくとか、今の私に優しくないので積極的に賛成しづらい。
「それもあり……あり?」
「今の時期だと、ボンゴレとか美味しいじゃん」
外では食べるけど、家で作ることがないパスタの名前が、あかりの口から当たり前のように出てきた。アサリの砂抜きが必要だし、そういう下拵えというやつは面倒極まりない。
あかりの口振りのどこにも、そういう下拵えを面倒だと思っているだらしなさは感じられない。尊敬の眼差しと先程とは全然違う新鮮な驚きを、あかりに向ける。
「もしかして本当に料理する人?」
私の質問が意外だったのか、社会性たっぷりの笑みとは違う、柔らかい微笑をあかりは浮かべる。
「本当って……うん、まぁ。そりゃ、一人だし自炊ぐらいね」
仕事終わりに飲んだり、人と外でご飯を食べている私とは全然違う生活を、彼女は送っているのだろう。
「凄いわね」
「難しくないわよ」
あかりは自分のカートに入っている筍に視線を落として、これなんて煮て待つだけだし、と続ける。待つことに慣れている事務員らしい発言だった。私はそういうふうに生きていないので、こういう言葉を返す。
「待ってる間、どうするの?」
「もう一品作るけど? お味噌汁とか?」
小さい頃に親が作るご飯を手伝ったり、子供の小さい身体ではとても広く感じるキッチンや重たい包丁やお鍋などをちゃんと使ったり、飲食店で誰かのために働き、一人で料理を作った経験が何度もある人の発言だった。
自分で第三の選択を挙げたあかりは、ようやく私の問いに答えてくれる。
「まぁでも、うどんじゃない?」
「パスタ派なのに?」
「うん。柔らかく煮て、ちょっと大根入れて食物繊維も一緒に摂れば、胃に優しくて美味しいご飯の出来上がり。どう?」
「美味しそうね、助かったわ」
冷凍のうどんを、カートに入れた。
「明日も頑張ってちょうだい」
しっかり私の勤怠を把握している事務員が、労ってくれる。
「そっちは?」
「言ったでしょ、有給」
「今日じゃないの?」
「明日」
「良い休日を」
「ええ」
あかりと分かれて、食べ切りサイズの小さな大根もカートに入れた。
家に帰って、あかりの言った通り、胃腸に優しいうどんを作る。
多分電子レンジで使えるであろうお皿に冷凍のうどんを一玉入れて、少量の水も加えて、電子レンジで少し長い時間加熱する。大根は適当な大きさに切り分けて……。
ここまでは順調だったのだけれど、大根を食べられるぐらい柔らかく煮たり、あるいはすり下ろしたりする時間が途端に惜しいように感じた。私に温かいつゆを作る能力があれば、あかりが言っていたような、煮て待つだけという工程を選べたかもしれない。
時刻は二十二時になろうとしている。金曜日は、週明けを見越した無茶な注文が色々と提案される日でもある。適切な判断を早く行う必要がある。睡眠はしっかり確保しなければ乗り切るのは難しい。二十三時にはベッドに入っておきたい。
加熱して柔らかくして、めんつゆで啜れば、すぐに食べられるのではないだろうか。洗い物もそっちの方が少ない。
電子レンジがチンと軽い音を奏でる。
あかりの厚意を無視して、私は素うどんを食べる。
あかりに申しわけない気持ちで一杯になったけど、週明けの月曜日に謝ろう。
自分が、待てない性格であることを久し振りに思い出した。仕事であれば、待つことはできる。仕事だから。外食であれば、待つこともできる。お金を払って食べているから。でも、自炊は違う。待てない。買い物をして、食材を切ったり準備をしたりして、焼くなり炒めるなりして、盛り付けて、食べて、洗い物をして、後片付けをしてという工程全てを自分一人でしないといけない。食べるだけで良い外食と全然違う。
私は料理を作ることをコストパフォーマンスに繋げて考えているのだろう。私が料理を作ることは、コストパフォーマンスが悪い。自分の生活において、料理を作って食べるという優先度が低いのだ。お金を払えば、食べられるものを買えるから。もし睡眠が外食と同じように、お金を払って買えるものであれば、真っ先に支払っていることだろう。でもそうならないので、眠る時間を用意している。
余った時間で何をするのかというと、きっと仕事だ。文章を書いたり、読んだり、資料を確認したり、議事録を確認したり、スケジュールを見直したりということに時間を費やす。
多分あかりは、こういう生活を送らない。自分の暮らしというのを持っている。私達編集部の人間のように、締切に終われることのない、ある程度の余裕を持っている。余裕はそのまま日々の暮らしの質に繋がる。学生時代に一度は夢見たことのある、余裕のあるゆったりとした暮らしというのを、あかり達はできているのだろう。
少し、羨ましいと思う。けれど彼女は彼女で私達を羨ましがっているのかもしれない。一つの物を作り上げた時の達成感は何事にも変え難い。作り上げた物に対して、面白かったです、感動しました、良かったです、と言ってもらえる時は至高だ。料理のように一度食べて終わりではなく、この世に残る。残るからこそ、非常に責任が問われるが、だからこそ楽しいし面白いし、真剣になれる。
残業の時に自分を鼓舞するような思考になっていきて、これは明らかに良くない兆候だった。急いで食べ終えて、洗い物を片付けて、寝る準備に入る。
※
月曜日の十三時過ぎ、私としては非常に珍しい一般的なランチタイムの時間帯に休憩をして、弊社の休憩室に足を運んでいた。私の家のように白を基調とした部屋。長いテーブルとパイプ椅子を適当に並べただけの簡素な休憩室。壁時計の秒針の音が大きく聞こえる。
食堂で食べたり、外に食べに出掛けている社員が多いので、休憩室には疎らに人がいるだけ。あかりの脇には、お弁当が入っているであろう入れ物とジャーが置いてある。平日でもちゃんと作っているらしい。
私は両方の手に持っていた、ホットでもアイスでも美味しく飲める紅茶とコーヒーのペットボトルを、あかりの前に置く。
「どっち派?」
事務員の制服を身につける見慣れたあかりは細い眼鏡の奥に佇む瞳で私を見上げると、すぐにすっと細める。柔らかそうな頬は硬さを覚え、色の変わっているところを見たことがない赤い唇をきゅっと締め上げる。あかりに似合わない誰かを試すような、相手を心の内を読もうとする表情。
けれどもあかりは私の心を読めなかったらしくゆっくりと首を傾げる。
「買収か取引か知らないけど、半までだから休憩」
あかりは紅茶を取った。
「十分よ。謝罪に来たの。それとアドバイスが欲しくて」
私はコーヒーの蓋を開けて、一口飲んだ。あかりは全然分からないといった様子で眉を寄せる。
「謝る相手、間違えてない? それとも、これから何かある?」
「事務員さんに謝りたいわけじゃないの」
「私?」
須藤あかりと私の接点は、先週の木曜日に突然生まれた。翌日の金曜日の残業中に知ったことだけど、あかりと私の家は案外近いと知った。今まで職場以外で接点がなかったのが意外だ、とも言われた。近くであれば通勤時などに出会いそうなのだが、私が通勤で使う沿線とは異なる沿線を使っていて、今まで全然接点がなかった。休日は全然違う時間の使い方をしているので、当然会わない。そういう次第なので、職場でしか会うはずのない人だったのだけれど、急に会った。平日の夜のスーパーで。
「そう、あなた」
あぁ……という全てを察したような短い言葉があかりの口から漏れた。紅茶を飲んで意識的に間を作って、人を煽るように口角を上げて、あかりは言う。
「せっかちだから、自炊もできないってどうなの? 渡辺あゆみさん」
綺麗に言い当てられて、言葉に詰まる。何か言おうとしたけど言葉にできなくて、息を呑み込み。いつまでも黙っているのは癪なので溜め息を零して、とりあえず、こういう時になるといつも思っていることを口にする。不機嫌だと示すように片眉を持ち上げて。
「煽る時にフルネームで呼ぶ癖、やめたら?」
分かりやすく刺々しい言葉で応じられる。
「分かりやすくしないと、伝わらないでしょ」
「余計よ」
短く不満をぶつけると、あかりはふっと短い息を零して、私の頭上に視線を移した。無駄話をしている時間が惜しいと切り替えたあかりは、それで、と切り出す。
「何を謝りたいの?」
私の休憩時間も長くなかったので、それまでのことを軽く水に流す。
「あの後、うどん、作らなかったのよ。教えてもらったのに。ごめんなさい」
素直に謝ると、あかりは目を丸くして言う。
「……え、良いんじゃない? 別に」
今までの笑いとは全然性質の違う、柔らかく明るい笑顔で、私の謝罪を全然気にしていないふうに流してくれる。
「いや、駄目でしょ」
音を立ててコーヒーのペットボトルをテーブルに置く。納得しそうになった自分を叱るように勢い良く声を発したけど、あかりは全然気にしていないようで簡単に肯定する。
「え、そう? でも、そんなもんでしょ」
あかりはそれで良いかもしれないけど、私としては良くない。教えてもらったことをやらなかったというのは、私の主義に反する。信頼や信用に関わる。長い社会人生活で失ってはいけないものだろう。
「いやいや良くないのよ、良くない」
私が意固を張っているだけなのは、私でも分かる。私は私がやらなかった理由を分かっている。それを適切に言語化して、あかりに伝えられる能力がある。疎ましいことだけれど。私は無意識の間に眉間に寄っていた皺を指先で揉んで、両方の眉を元の位置に戻してから、正直に心境を述べる。
「面倒だからやらない、って駄目なのよ。一人で買い物行って、作って、食べて、片付けて……すごく性に合わない。でも、だからといって、やらなくていい理由にはならない」
あかりは私の怠惰を聞いても、全然呆れることなく、あっさりと良いと思うけど、と答える。あかりは少し考えるように口元に手を添える。
一つの提案を、私にする。
※
その日の夜、私は珍しく早くに退社した。十九時のことである。お昼から生じた、何故? という疑問を振り払うように、今日中にしないといけないことだけを片付けることに集中したら、そんな時間で退社できていた。その疑問に答えるのは私ではなく、約束を取り付けた相手から聞くべきことだろう、と結論付ける。
電車に揺られて、普段降りる駅で降りて、普段の出口とか違う方向へ。看板の指示通りに地下道を歩く。しばらく歩くと丸い広場へと辿り着いた。
丸い柱が等間隔に並び、華やかなオレンジの照明が辺りを照らす。周りには地上へと上がる階段が何ヶ所もあり、飲食店はどこもお酒を提供しているようで、スーツ姿の男女が盛り上がりを見せている。
多くの人が行き交う中で、柱に背を預ける女性がいる。オレンジの照明を受けて、暗く見えるミディアムヘアーが普段よりも茶色く見える。眼鏡をかけていない目は、職場で見るよりも張りと大きさを感じさせる。グレーのジャケットを肩にかけた、薄手の黒い丈の長いワンピース姿。手首に巻いた赤い腕時計に視線を落としていたが、ふと視線を上げる。足先を飾る黒いビットローファーを向けて歩いてくる。
「思ったより早い」
弊社の制服を着ていない姿を一度見たことがあったけど、いまだに私服を見慣れない須藤あかりに向けて社会人としての態度を示す。
「人を待たせる趣味はないから」
「良い趣味」
「自分でもそう思うわ」
あかりは一つ笑うと、こっちと言って、辺りに立ち並んでいる飲食店には入らず、階段を上がる。私は彼女の後ろを着いていく。あかりから訊かれる。
「アレルギーとか嫌いな物ってある?」
「アレルギーはないわ。嫌いなもの……脂っこいのは、ちょっと遠慮したいわ」
小さい背中に、中々されない質問の答えが合っているのか分からなくて確認を取る。
「こんな感じで良かった?」
地下を出ると、大通りに出た。雲一つない藍色の夜空が広がっている。この時間は白い照明が燦々と輝く社内にいることが多いので、まだちゃんと青い夜空の下を歩くのは久し振りだった。大通りを超えて、もう少し東南に向かえば歩き慣れた道になるのだけれど、今夜はまだそちらに行けそうになかった。
「十分、ありがとう」
大きな歩幅で歩く私は、すぐにあかりの隣へと追いついてしまった。
「お礼を言うのは、こっちじゃない?」
「食べたくないのを作る趣味はないから」
「自分は?」
「私?」
「そう。自分が食べたいけど、人の嫌いな物だった時、どうするの?」
「明日作って、食べる」
当たり前じゃない、と続けたあかりに、私は賞賛の拍手を送る。どうしたの急に、とあかりは目尻を下げる。左に曲がり、大通りから遠ざかる。段々と住宅街に入っていっているのが分かる。
私達は、仕事終わりにお酒を飲むために集まって移動しているわけじゃない。
今日の昼間、あかりは話の最後に、こう言った。
――今夜、家でご飯作ってあげる。十九時半頃に駅前で。
何故? という私の問いかけは、私達が互いに十三時半で休憩を終えたことにより答えてもらえなかった。
事務員として働くあかりは、社員の会議などのスケジュールを把握しており、調整によって断ることはできず、私自身も特に断る理由を見つけられなかったので、こういうことになった。
私は昼間にした時と同じ問いかけを、あかりにする。
「何故?」
あかりは話を続きと思ったらしく、ちゃんと答えてくれる。
「折角作ったのに、嫌いだしなぁ……って嫌な気持ちになられるの、嫌だし」
「そこじゃないわよ。私を呼んだ理由」
あかりは、んー、と考えるように声を上げた。すらりとした白い指で考え事をしているように、頬を弱く叩く。私に見合った答えを探しているかのように。
通りに建っているマンションのオートロックを解除して、エントランスへと入る。私も後へと続く。二台並んでいるエレベーターはどちらも一階になかった。あかりは上へと向かうボタンを押す。二人並んで立ち止まって、エレベーターが降りてくるのを待つ。
私の質問に答えない気なのだろうか。聞き流されたのかもしれない。答えにくい質問を投げた覚えはないのだけれど、何が不味かったのだろうか。催促するようにもう一度、言おうとした時、あかりは真面目な調子で言い切った。
「手料理を食べた方が良いこともあるから」
エレベーターが一階へと降りてきた。あかりは乗り込む。私は遅れて、乗り込む。五階が赤く光っている。そういうことを話された覚えがなかった私にとって、あかりの言葉は意外そのものだった。
「そうなの?」
「うん」
栄養とかそういう類の話ではない何かを、あかりを重要視していることが何となく察せられた。
そんなことを考えながら、私は須藤あかりの家のドアをくぐった。白ご飯を炊いた香りが、鼻から全身に広がる。他の人の家を訪れた、という感覚がすぐに分かった。玄関の前に仕切りとして目の高さぐらいまで暖簾のようにぶらさげているあたり、私の家と全然違う。狭い玄関のすぐ隣に、全身を映せる鏡がある。色味の薄い黒のパンツルックに、ベージュのパンプス、普段から使っている大きなトートバッグを手に持っている姿は、朝に自分の家で見かけた時と何ら変わらない。自分の顔がすごく慣れない環境にいるので、困惑していることを除けば。
玄関に並んでいる何足の靴は綺麗に並んでおり、小さくまとめられた傘は時雨の時と日傘で役目を分けているように思われる。
ちゃんとした暮らしが、玄関から感じられる。
「お邪魔します」
あかりは慣れた手つきで、自分のは違うシックなルームシューズを持ってきてくれた。玄関を上がると、すぐにリビングが広がっていた。右手にはキッチンがある。料理をちゃんとしているのに白く光っている壁。炊飯器やコンロがある。コンロの周りにはお玉やフライ返しなどの調理器具が吊り下げてある。
肩に引っ掛けていたジャケットを脱いで、少し長い髪が邪魔にならないようにまとめ、白いエプロンの後ろ紐を結ぶあかりの姿もある。
「まぁ適当に座って」
と言って、あかりは後ろ手で一人で使うには明らかに大きいテーブルとテーブルを挟んで置いてある二脚のチェアを指す。手前に腰掛けて、待つ。待っておくのが正解なのだと思うけど、ただ待つのも難しい。
「何か手伝いたいけど?」
私の提案は、あっさりと却下された。
「何で、お客さんに手伝わせないといけないのよ。寛いで待ってたら良いから」
後押しするように、マグカップを目の前に置かれる。出されると飲まないわけにはいかなくて、湯気の立つ緑茶は私の緊張を和らげるように喉を通る。
こういうふうにもてなされたことはないわけではないけど、大体そういう時はもう何度か外で会っている。関係性を構築できている。でも、あかりとはそういう関係ではない。職場で顔を合わせるので、外で会っているという部分はクリアしているけど、関係性の構築ができていない。そういう人から、寛いで、と言われると、難しい。
「……難しい注文じゃない?」
あかりは振り向く。その手には小さなキャベツと玉ねぎがある。あかりの視線が私から、フローリングへ置かれたトートバッグへと移る。
「そう? じゃ、本でも読んで待ってて?」
バッグに本はある。あるけど、人といる時に本を読まないようにしている。あなたに興味がありません、と宣言しているようで申しわけない気持ちが勝る。たとえ家主から言われても、拒みたい。
私はあかりの家にお邪魔した時から思っていることを口にした。
「慣れてるのね」
あかりは私の考えを吹き飛ばすように明るい声を立てて笑った。
「時々、弟とか妹とか来るからね」
あかりは私と話しながら、片手鍋に出汁を入れたり、玉ねぎの皮を剥いたり、淡々と用意をする。
「長女?」
「うん、そっちは?」
「一人っ子」
「良いわね」
「そう?」
「うん。喧嘩とか下の子の面倒見たりとかしなくて良いじゃん」
「そんなことしてたの?」
「長女だから」
「大変ねぇ。でも、そのお陰ね」
「そのお陰で、あなたは今、こうしてご飯を振舞われているわけ」
後ろ姿を見守りながら、嫌いな物やアレルギーに関する情報は共有したけど、何を作ってくれるのかは聞いていなかったことを今更思い出した。
「何を作ってくれるわけ?」
「春キャベツとたまねぎの味噌汁とご飯。足りなかったら、帰りに何か食べて帰って」
「おすすめは?」
「今だと、そうね、イカとかサワラとか美味しいんじゃない?」
「言い方を変えるわ。おすすめのお店は?」
「駅ビルに立ち食いの鮨屋さんがあるから、そことか?」
「米と米じゃない?」
「パンが良いの?」
だったら、と遅くまで営業しているおすすめのパン屋も教えてくれる。私が仕事のために多くの時間を費やしている時、あかりは自分で作ったり、近くのお店を足を運んで食べることに時間を費やしていたのだろう。
出汁の上品な香りが、部屋に満ちる。小さく、腹の虫が鳴る。
「もう少しだから」
小さな音に気づいたあかりが一瞬、こちらを見たような気がした。と思えば、気遣うような言葉が飛んできて、味噌の香り続けて漂ってくる。
あかりの言葉は本当だった。次にあかりがこちらを向いた時、あかりの手には小さなお盆があり、白ご飯が盛り付けられたお茶碗とお味噌汁が入ったお椀がある。私の前と対面に用意して、エプロンのままのあかりが前に座る。
「待たせちゃった?」
「いや、全然」
いただきます、と手を合わせて、お味噌汁を口につける。春キャベツの上品な甘みと柔らかさ。辛いかもしれないと思っていた玉ねぎは全然そんなことなくて、歯応えを感じさせる。白ご飯は少し柔らかいけど、全然気にならない。外食にはない優しさが、あかりの作るものにあった。ほっと一息つけるものが、手料理にはあった。
「……美味しい」
顔を上げると私を見つめるあかりの丸い目と合った。この時間でも描かれているピンクのアイシャドウが、よく見える。私の感想に満足したのか、にっこりと笑う。それから、自分も食べ始める。あかりは頷いて、言う。
「うん、やっぱり美味しいわね」
手料理を食べた方が良いこともあるから、とあかりが言った理由が、私にも分かったように思えた。自分がこんなふうに作れる自信はなかったけど、あかりの動きを後ろで見ていて、どれも自分にもできそうなものばかりだったことを思い出す。難しいことは一つもしていなかった。私と話しながら玉ねぎは適当な大きさに切っていたし、キャベツは手で適当な大きさに千切っていた。
お味噌汁はまだ残っていて、多分、明日の食べるのだろう。
あかりの日常の延長が、そこにはあった。
私は仕事やランチタイムでは味わってなかった小さな温もりを味わいながら、またお味噌汁に口をつけた。温かった。〈了〉
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