「二十一グラムの行き先」
白波坂の洋館と世間から呼ばれている建物は、駅前の坂を登ったところで接続される別の坂を登り、その坂に切れ目にある勾配が一段と強い白波坂を登ったところにある三階建ての煉瓦造りの家であり、坂下に広がる街並みを見下ろすように建てられている。洋館の背後にそびえる山は秋の深い頃には紅葉の名所となり、二階や三階のテラスからは白波坂の突き当たりにある紺碧の海原が微かに見える。表の庭や裏庭に出た際に、海原を撫でた風が吹いてくることもあれば、山の木々を揺らし坂の下へと流れる風が吹くこともある。
玄関ルームを通ると洋館はリビングと大人を合わせた吹き抜けが三階まで続いており、左右にそれぞれ設置されている階段の周りには等間隔に燭台が置かれているのだが、アーチ型の高い天井に至るまでに何枚もの窓があるため、陽の光を各々の部屋の至るところにくまなく届けておりいつまでも明るい。各階にある幾つものドアの上部にはキッチン、書斎、主寝室、バスルーム、ゲストルームなどと書かれた金属のプレートが備え付けられている。
全てのドアを取り外せば眺望の良い、外の光をふんだんに取り入れた真新しい博物館になれたのではないか。あるいは煉瓦造りの外観や内装を活かすことを考えると美術館やホテルになれたのではないか。そういう話が、当時の洋館の主人が病に伏せているという噂が流れた頃に坂の下でされたことがある。一家族が所有するのではなく、民間のためや社会のために役立てられればいいのではないか、という話が、盛んにされた。
坂の下の事情は、洋館まで届くことはなく、洋館の当時の主人である三枝桔平が亡くなり、後を継いだ未亡人も亡くなり、遺言状により正式な手続きが採られ、未亡人から二親等の先の女へと相続された。
一親等の者達は、自分達の娘に洋館が相続されたことを、何も言わなかった。彼等には遺産としてかなりの金額や何らかの所有権が相続されたり、形にならない縁が彼等の助けになっていたからである。駅から遠く、アクセスの悪い坂の上に建つ洋館は、固定資産税や修繕費など金がかかるだけの、いわば遺産の中でハズレに分類されるものであった。それがどうして佐紀に相続されるのかは、未亡人以外には分からない。三枝家の中で唯一、私立の美大を才能がないため四年で卒業し、三枝家の人間が働くにはおおよそ考えられない公立の高校で美術教師として教鞭を執り、自分で車を運転し、手伝いの者を一人も雇わず、二十代の中頃に差し迫っても未だに独り身であり、縁談も断り続け、子供もおらず、絵画と草花を好む、一家の中では変わり者として名高い佐紀に何かを相続させようとした祖母の苦肉の策なのだろうと考え、彼等は納得するようになった。
佐紀は親族や坂の下のことは気にすることなく洋館の相続した。祖母がどうして自分に洋館を相続させたのは全然考えず、何か運が良かったのだろうと思っている。佐紀にとって祖母は、三枝家という一族の中で佐紀に面倒なことは言わないが、その分じっと佐紀を見ることがあり好きになるのが難しい人だった。
洋館の最寄りに高校があったので、そこで変わらず美術を教えている。高校まで毎日、四駆の軽自動車を運転している。
週末には、六畳一間のマンションではできなかった快適な一人暮らしを満喫している。テラスにキャンバスとイーゼルを出して坂の下の様子や風景をアクリルでスケッチをしたり、裏庭が見えるゲストルームの窓に分厚い遮光カーテンを引き、換気扇を取り付け、油彩画専門のアトリエに変えたり、複数ある書斎に残された祖父母が集めた古今東西の本を読んでいる。平面芸術に飽きればダイニングの一角で粘土の立体芸術に挑戦することもある。庭に出て、木や石の立体について考えることもある。月に何度かはそういう芸術から離れて、草花や土といった自然と触れ合っている。
六月のある土曜日の朝、滅多に鳴らないベルが鳴った。一階のアコーディオンのような門扉の向こう、煉瓦に一点だけある黒い染みのようなベルが、動いたのである。重たく、低い音が、洋館に響いた。門扉に最も近い前庭の芝生に水を撒いていた佐紀は、全自動の食洗機かあるいはオーブンか何か誤作動を起こしているのだろうかと思った。水を止めて、キッチンへと向かったが、食洗機は通常通り動いており、オーブンは静かなままだった。二階の各部屋を回ってみたが、どこも常日頃そうあるように明るく、静かである。主寝室のテラスから下を眺めるが、陽に照らされた影のない。白い坂の斜面が広がっているだけだった。踵を返し、室内に戻ろうとした佐紀の背に、落ち着き澄んだ女の声が届く。
「あのー、すみませーん」
テラスのずっと向こうに見える海面を揺らす白浪のようだった。佐紀はテラスの欄干に寄り掛かり、覗き込むように身を乗り出す。一階の門扉の前に人影があり、佐紀は二階のテラスから声をかける。
「はーい、今、行きます」
慌ただしく寝室を出て、階段を降りる。洋館に似つかわしくない大きな音が続く。少し足早にリビングを通り、玄関ルームのドアを開け、ようやく洋館のドアの前。乱れそうになっている息を整え、ドアを開ける。煉瓦を敷いたアプローチの周りは木が植っており、門扉まで覆うように影を作っている。閉ざされた門扉の向こうに一人の女性が立っている。ブラウンのワイドパンツに同じ色合いのニットを合わせた、細身の色の白い女性。明るくカールされたセミロングの髪が陽の光を受けて、一層明るく感じられる。手には駅前の百貨店のロゴが描かれた紙袋を携えている。
女性は影の中から歩んでくる佐紀を見かけると肉付きの良い頬を柔らかに持ち上げる。色も厚みも薄い小さな唇が、動く。
「朝早くに申しわけありません。私、近所に引っ越してきた酒井めぐみと言います」
陽の当たるところに立っているめぐみの白い頬に粒のような汗が浮かんでいるのが見えた。佐紀は門扉の前で足を止め、中心から両方に裂くように門を開ける。重たい鉄を引きずる音が、辺りに響く。頭と心の片隅にある、平日に使っている社交性を引っ張り出して、微笑を浮かべる。
「ご丁寧にありがとうございます。三枝佐紀です」
「こちら、お近づきのお印です。よろしければどうぞ」
「ありがたく使わさせていただきます」
「これから、よろしくお願い申し上げます」
「はい、こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
そう言って、めぐみは踵を返す。佐紀は重たい門扉を引きずって、閉める。
紙袋の中身は入浴剤だった。佐紀はバスルームへ向かい、普段よりもずっと早い半身浴を楽しんだ。甘く華やかなラベンダーの香りが、洋館の中に芽吹く。佐紀はバスロープを身体に引っ掛け、鼻歌を歌いながら、イーゼルにスケッチブックを立てかけ、鉛筆を動かす。
先ほど出会ったばかりのめぐみが紙の中で描かれている。柔らかな素材のワイドパンツやニットが再現され、光の当たっていた色の白い手や首や頬が描かれる。小さな顔の中で彩られるパーツを描こうとして、佐紀の手がふと止まる。熱く火照った頬が、硬く膨らむ。
一枚の絵として完成させることは、記録に残すということだ。記録に残すということは佐紀がいない時に誰かに見られる可能性を作り出すということだ。佐紀にとってそれはいけないことだった。特に、女性のデッサン画などは。佐紀の描いてきた絵は風景画が多く、人物がいることはいるのだが、どれも細部まで詳しく描かれていない。面と立体と明暗を巧みに捉え、人物と判断できる程度に留められている。
濃く柔らかい鉛筆に持ち替え、今まで描いてきためぐみの上に大雑把に鉛筆を走らせる。瞬く間に黒くなる。その下にめぐみを描いていたのが分からなくなるほど。空いているスペースに、使ったばかりの入浴剤のパッケージを描き、感想を一言添える。スケッチブックの中はそういう黒い塊が、いくつもある。黒い塊の側には、佐紀の筆跡で一言二言、その日の様子が書かれている。
めぐみがどういう人なのか、佐紀は知りたくなかった。願わくば世帯を持っていてほしかった。もっと言えば、子宝に恵まれてほしかった。おおよそ一般的である普通の女性の、普通の幸福を歩んでいてほしかった。そうであれば、佐紀はこの洋館で絵画と草花を愛でる日々を送るだけで良い。他人を気にかけ、心惹かれ、誰かと共に過ごしたいと思ってはならない。
三枝家にとって必要な女性や子供は、佐紀以外の姉や兄達で賄えている。佐紀が一生を独身のまま過ごしても、三枝という家は続いていく。佐紀が亡くなれば、この洋館も三枝の所有物ではなくなり、何か社会に役立つものに建て替わるだろう。孫や玄孫が健やかに育ち、大人になった頃には、三枝佐紀という女のことは、一家のどこにも見当たらなくなるだろう。洋館が社会に役立つものに替わるように、佐紀もまたどこかの高校で美術を教えていた人という社会に役立つものに替わる。
男性と付き合い、結婚し、子供を産むという普通の生活を送ることができない性的嗜好であることに気づいた時から、佐紀はそういう運命を歩むことになっているのだ。
佐紀はスケッチブックを部屋の片隅にしまい、ラフな装いに着替えて、油彩画のアトリエに移る。筆を洗うクリーナーや溶き油の匂いが充満しており、佐紀は顔を顰め、換気扇を回す。窓も開けて換気をしたかったが、陽の光に弱い油彩画のことを思うと、そこまではできない。
この洋館の良いところの一つに、掃除のやり甲斐を感じられるところだと佐紀は思っている。掃除をしながら運動として走り回っても文句は誰にも言われない。室内だけではなく、前庭の手入れも忘れてはならないし、裏庭の手入れもある。そうやって身体を動かし掃除に集中していれば、気分は晴れてくる。それでも気分が晴れなければ、祖父と祖母それぞれの書斎に置かれている膨大な書籍に目を通せばいい。次第に空腹を覚え、何日か分の食事をまとめて作れば、朝のことなど忘れている。そういう生活を、佐紀はできるのだ。
各階のフローリングの掃除は全自動の機械に任せながら、階段や燭台や柱などをくまなく掃除し、シーツや布団カバーも新しいのに取り替え、庭の雑草も抜いていると汗が全身にまとわりつき、陽の高い間に二度目の風呂に入った。洗濯も乾燥も全て自動で行なってくれる洗濯機を動かし、軽い昼食を摂り、自分の書斎に足を踏み入れる。
祖父母達の書斎と違い、展示会の目録や近現代の絵画をまとめた判型の大きい本が至るところに積み重ねられている。佐紀は教師としての本分を思い出し、頭を強引に切り替える。今後の授業で生徒達に教えることを考える。美術史を繙いてみたり、指導要綱を確認したり、何か課題として作らせるのも良いのかもしれない。美大や芸大に進学を考えている生徒のことを考えたりする。
そんなことを考えていると、唐突にお礼という文字が頭を過った。引っ越しの挨拶として頂戴した入浴剤のお礼である。
近所に引っ越してきた、とめぐみは言っていた。ということは、この坂のどこかに表札に酒井と書かれた家があるということだろう。平日の間は毎日通る場所であるため思い返してみるが、景色として流れていくばかりで誰の家がどこにあるのか全然知らない。引っ越し業者の大きなトラックが停車していたかどうかも思い出せない。
自分の足で探した方が良いのかもしれない。が、この傾斜のきつい坂道を歩き、探す気にはならない。
お礼を伝えられないのは心苦しいものがある。相手が勝手に行ったのだから、こちらから何か伝える必要はないのではないか、と考えてみる。真っ当な考えかもしれないが、使用して快適だった以上、お礼は伝えたい。こういう細かい縁が後々に自分の助けになることもある、ということを、この洋館の主人に教えられたことがある。未亡人にも、お礼は欠かさないように、と言われている。
佐紀は大きな溜め息を零し、本棚のどこかにしまってあるメモ帳を取り出し、明日の予定として酒井めぐみ宅を訪れる、と書いた。佐紀はその下に、引っ越し祝いのお礼として、という言葉を続けて書いた。
手伝いの者が色々と忙しそうにしていたのは、こういうことだったのかと思い出す。もし佐紀が他の家族と同じように手伝いの者と一緒に生活を送っていれば、こういう時、すぐに動いてくれただろう。佐紀がめぐみと初めて話した時に挨拶で終わらせず、どちらに住んでいるのか聞き、佐紀に報告した後にめぐみに一筆認めたりする。一人暮らしをする時に手伝いの者はいらないと宣言した以上、この洋館でも手伝いの者を呼ぶ気はない。佐紀は一人で生きていかねばならない女なのである。
どうして佐紀は同性の者しか愛せないのだろうか。遺伝と考えてみたが、佐紀の除く三枝の女達は、皆それ相応の男達を選び、あるいは指名され、生活を共にしている。当たり前のように異性を愛せている。同性を愛するということを考えていないようにすら思える。
遺伝という線が消えると、だからこそ佐紀の愛情の矢印が異性に向かなかったと思うようになった。そういう当然といえること、当たり前のこと、自然なことを受け入れられなかった。異性を愛さなければならないという義務のようなものに、違和感を覚えた。そうして自分の恋愛対象から、いつからか異性が消えた。
「意外です」
日曜日の昼下がり、皺一つない真っ白なテーブルクロスの向こうから、可能な限り落ち着こうと試みるけれど、隠しきれない興味を辺りに振り撒く穏やかな客人の声がした。客人の視線の先には、雨に濡れた前庭の緑が広がっているはずだ。洋館は外の暗い灰色の雲の影響を受け、どこもかしこも薄暗く感じられた。
キッチンルームから紅茶とスコーンを乗せたワゴンを押していた佐紀は、客人と同じ言葉を口の中で繰り返し、彼女に気づかれないように少しだけ眉を上げる。
「この辺りは雨がよく降るんです。夏が終わるまではきっと、こんな感じです」
めぐみは高い天井や二階や三階へと繋がる階段や長い食事用のテーブルを一瞥する。
「あ、いや、そうではなく……一人ですか?」
佐紀はワゴンをテーブルの脇に置いて、二人分の温かい紅茶を用意する。
「一人です」
「意外です」
また同じ言葉を繰り返され、佐紀はめぐみに勘付かれないように目を細める。
「そうですか?」
「そうです。……持て余しません?」
「持て余してますから、突然のことにも対応できます」
「重ね重ね、ご迷惑を……」
めぐみは身を縮こませる。
この洋館に招かれてから恐縮を続けているめぐみに、昨日の朝に見た上品さは感じられない。こちらの方がめぐみの本性に近いのかもしれない。
「雨合羽と電動自転車の購入をおすすめします」
「引っ越し早々に痛い出費です」
めぐみは乾いた笑い声を上げる。
坂の下で懸命に自転車を押していためぐみを見つけた佐紀は、自分の車に自転車と共に彼女を乗せた。道中で移動を手短に済ませていると、雨が降り始めた。車輪がパンクしためぐみの自転車は、玄関ルームの一角で雨に濡れないように避難させてある。
めぐみは紅茶を一口飲み、変わり映えしな雨雲を見上げている。
「梅雨入り、ですかね?」
佐紀は彼女から距離を取るように最も遠い席へ自分の分の紅茶を用意する。庭を背にするように座り、芝生に降り注ぐ糸のような雨音に耳を傾ける。
「まだだと思います」
「困りますねぇ」
そんなに困りませんと否定したかったが、湿気に弱い油彩画のことを考えると否定が難しくなる。佐紀は逃げるように紅茶を飲み、スコーンを手早く食べ終えると視線の向こうにいるめぐみが勝ち気な笑みを浮かべている。視界に入ってしまうと無視するのが難しい、清々しいものだった。
「……何でしょうか?」
「お節介かもしれませんが、何か手伝えますよ」
断れるとは思っていないらしく、語尾が半音上がっていたそれまでの調子が影を潜めている。この洋館に一人で住んでいるということを知っためぐみがお礼に、と気を効かせているらしい。結構ですと断っても良かったのだが、雨の時分の掃除の人手は多い方が良い。この家には、本や絵画など湿気に弱いものが沢山ある。それぞれの状態を確認するのは、一人では大変骨の折れる仕事である。
「あなたにもお家のことがあるのではないですか?」
「一人暮らしのワンルームなんて、ちっとやそっとで大事になりませんよ」
不安を吹き飛ばすように笑われる。必要な情報を得てしまった佐紀は、どういう言葉を返すのが適切なのか考え込む。その隙間を縫うように、めぐみは佐紀の思考を邪魔するように言う。
「それにですね」
「……何でしょうか?」
「まだ雨は降るでしょう?」
めぐみの視線が前庭と佐紀から玄関ホールへと流れた。二人のティーカップにはまだ半分程度薄い鮮紅の液体に満ちている。ワゴンに置いてあるポットにも一杯ほどにはならないだろうが少しは残っている。決して激しい雨ではないのだが、パンクした自転車を押させて帰らせるほど、佐紀は薄情ではなかった。
「世話好きですね」
「物好きなんです」
「自分で言うことじゃありませんよ」
「引っ越し先で馴染むにはこれくらい強引な方が良いんです」
めぐみのように一人で暮らしている経験があった佐紀だが、めぐみのように他人と半ば強引に関係を作るような真似をしたことはなかった。むしろ、好んで距離を取った。自分のことをよく知っているからこそ。
佐紀とめぐみは紅茶を飲んだ後、祖父の書斎にしまわれている本が湿気で曲がったり、黴で汚れたりしていないか確認することにした。雨が上がるまで、と制約を設けて。アトリエと佐紀の書斎は、佐紀自身で行うことにした。何か見つかってしまってはいけない。
雨はすぐにやんだ。めぐみは佐紀の言いつけ通り、すぐに帰った。祖父の遺した本の確認は全然終わる気配がなかった。
それから休日の雨の日に、一階のアコーディオンのような門扉の向こう、煉瓦に一点だけある黒い染みのようなベルが、動くようになった。重たく、低い音が、洋館に響いた。佐紀はキッチンルームや二階に歩むことなく、真っ直ぐ玄関ルームへと向い、めぐみを招く。雨が続き薄暗い室内は、不思議と明るく華やいで見えた。
「飽きませんね」
「約束しましたから」
佐紀はめぐみと過ごす一時を決して嫌いにはなれなかった。自分の性的嗜好という部分を抜きにしても、彼女といる時間が不思議と心地良いものになっている。多分それはきっと、めぐみの口からこの洋館についてとかそういう家族のことを訊かれていないからだろう。めぐみが佐紀について知っていることは、この洋館に一人で住んでいる女性、というだけだ。その距離感が、佐紀にとって心地良かった。安全に三枝佐紀という一人の女性でいてられる。
だからこそ、佐紀はめぐみに深く関わらないようにしていた。同じ空間に居ないように意識した。ドアを隔てた向こう側に、居てもらうことにした。
佐紀が自分の書斎の整理をしていた時、ドアがノックされた。佐紀は自分の胸が大きく跳ねたのを知った。そっとドアを開けると、めぐみが首を傾げて立っている。手には見慣れない白い封筒を持っている。
祖父の書斎の整理が終わり、祖母の書斎を頼んでいたため、きっとおそらく祖母の書斎から出てきたものなのだろう。
「宛名を書き忘れてます」
佐紀は首を傾げる番だった。
「はい?」
「どうしましょうか?」
ドアの隙間から封筒を受け取って確認してみるが、めぐみの言った通り、宛名だけが書かれていない。封筒には封がしてあり、光に当てて中を透かしてみると、便箋か何かの類が折り畳まれて入っているのが見える。封筒の裏面にはいつか見たことのある祖母の文字で住所や名前が書かれている。
「これは、どちらに?」
「本の中に挟まってました。栞みたいに」
新たな遺言状が見つかったのではないだろうか。佐紀は真っ先にそう思い、頭に痛みが走る。眉間に皺を寄せ、疲れたように息を吐く。部外者に見られているのも良くない。
「めぐみさん、約束を守るのは得意ですか?」
めぐみは佐紀を心配させないように口元をきゅっと持ち上げる。
「口は堅い方です」
「今見たことは忘れてください」
「分かりました」
即座に言っためぐみに佐紀は神経的に寄せた眉を一段と強く寄せる。
「物分かりが良いんですね」
持ち上げられためぐみの頬からふっと力が抜ける。
「あの、佐紀さん」
「何でしょうか?」
「坂の上に建つ広い洋館に一人で住んで、絵画に詳しい美しい女性から、約束を守ってください、って言われて断る人、きっといないです」
「……御伽話みたいですね」
「はい、とっても」
雨が上がり、めぐみは帰った。
佐紀は書斎で祖母が出さなかった手紙をどうすればいいだろうかと悩んでいた。何も見なかったことにして処分してしまった方が良いのだろうか。しかし、と思う。
どこかに出す予定だったのかもしれないが、手伝いの者に一声かけ、宛名を書かせ、投函させれば済むことである。わざわざ本に挟んでおく必要はない。遺言状でもわざわざ見つけにくいところに置いておく必要もない。祖父が亡くなった時のことを体験しているのならば、そういう手段は採りにくいはずだ。
誰かに見つけられることを拒んでいた手紙であるため、処分という簡単で分かりやすい手段を採れない。
もし祖母が生きていれば、連絡を入れて、後のことは彼女に委ねれば良い。が、既に亡くなっているため、そういう方法も採れない。佐紀が、どうするか決めなければならない。
佐紀はどうするか悩んで、心の中で祖母に謝り、封を切った。綺麗に三つ折りにされた便箋が数枚、出てくる。祖母の字が綴られている。
――この手紙は、私が既に書いた遺言状通り、洋館を継いでいる佐紀に読まれていることを望みます。
ですので、もし、この手紙を佐紀以外の者が目にした場合は、即刻、焼くなり破るなりして、誰の目にも触れないように処分してください。
もし、佐紀が読んでいた場合はどうか最後まで読み進めてください。
どうして佐紀を指定しているのかということですが、彼女は私と同じなのではないか、と推測しているためです。
同じであることを彼女が自覚し、私のように残酷なまでに強かではないがために、一族の中で不自由で損をしやすい立場に貶められたのではないかと思います。申しわけありません。せめての償いとして、住むところには不自由させたくないと思い、誰とでも住めるように、この洋館を相続させました。
私が祖父、三枝桔平を愛しているのか言いますと、決して首を縦に振りたいわけではありませんが、私は三枝桔平の妻として、一時でも三枝家の洋館を引き継いだ立場として、愛していると言わなければなりません。
ですがそう頷きますと、私が本当に心から愛したかった彼女を、愛していないことを意味するのではないでしょうか。この心が引き裂かれんばかりの苦しさを、佐紀も、自分の娘や孫が味わってしまうのではないかと思うと、まるで自分のことのように胸が痛みます。
自らの一生を振り返りますと、妻として母として果たすべき務めは果たしたと思いますが、人としての務めを果たせたかどうかは疑問に残ります。私の心にいつまでも住む彼女は果たして、無事にその生涯を終えられたのでしょうか。
佐紀には、愛したい人が男性ではないという理由だけで、その気持ちを、思う気持ちを偽ってほしくありません。あなたが男性ではない人を好きになるという気持ちは、きっと遺伝ではないと思います。あなた個人の、あなただけの気持ちです。どうか私のように不幸せにならないことを祈っております。
この手紙を読み終えた時、もし可能でありましたら、裏庭で焼いて処分してください。坂の下で住んでいた彼女の街並みが、どのようなものか風と共に見てみたいためです。そうして、私の魂が、肉体から離れたわずか二十一グラムの存在が、どこへ行くのか――
本格的な梅雨を迎えたある日、佐紀はめぐみに一つ、提案した。めぐみは今まで見た中で一番驚いた顔をして、佐紀の提案を繰り返した。
「絵のモデル、ですか」
佐紀は緊張を悟られないように微笑を浮かべたまま、頷く。めぐみの視線が洋館の高い天井を泳ぐ。
「……私で良いんでしょうか?」
「あなたが良いんです」
「佐紀さんがそこまで言うんでしたら……」
アトリエにめぐみを通し、空いている椅子に腰掛けるように告げる。ぎこちなく椅子に座るめぐみを、佐紀は一枚のキャンバスへと落とし込む。筆を持つ手は、軽やかに動く。描けなかった瞳や唇や鼻筋まで描ける。そこに自らの生きた証を刻むように。誰を愛したのかと分かるために。
裏庭で風が吹いたらしく、山の木々が揺れた。風が坂の下へと流れていく。〈了〉
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