二人だけの夜

※本作は「口約束」に登場する二人の物語となっております。

事前に一読されると、一層楽しめると思われます。

PDFファイル版(文庫サイズ・縦書き)

 

「二人だけの夜」

結婚してから縁遠くなったものは色々あるけれど、その中で最も縁遠くなったのは、夜の街で主人以外の人を待つということ。結婚してからの夜はお行儀良く家で主人の帰りを待つということを続けていたけれど、今夜はそうならなかった。昔に戻ったように。

こんな時間にカフェで主人以外の人を待っているのは、何年振りだろうか。しかも朝に会った人と夜にも会うことになるなんて。

カツンと高いヒールが地面を叩く音がして、視線を本から音のした方に向ける。お店の方にと何か話したかと思えば、背の高い女の人が真っ直ぐこちらに向かって歩いていきた。

私の目の前へと座ったグレーのパンツスーツと丸いショートカットが似合う女の人は、メニューを見ずにアイスコーヒーを頼む。

この人は夜に見ても一輪の背の高い、花弁の大きい花のようだった。朝に会っても昼に会っても、ずっと印象を崩させないのだろうと思わせるものがある。人に見られていることに慣れている長い手足や歩き方がそう思わせるのかもしれないし、艶やかな薄紅のチークもブラウンのリップが朝見た時と変わらないせいなのかもしれない。

オールドローズという薔薇がある。名前の通り、ずっと前に見つけられた薔薇を親にしている春だけに咲く一季咲き性の薔薇らしい薔薇。彼女はそれより後に生まれた完全な四季咲きのハイブリッド・ティーだ。

見る人の瞳を一瞬だけでも奪う美貌が、彼女の小さく白い整った顔にはある。

あまりにじっと見ていたのが彼女にも伝わったらしく、長い眉を少し持ち上げて、この時間でも十分に角度のついたまつ毛の内にある大きなブラウンがかった瞳を細める。機嫌を損ねている顔を見せるけど、声はずっと楽しげで軽くて、優しい。

「お姉さん、あんまり人の顔をそんなふうに見ない方が良いわよ」

「ごめんなさい、綺麗だったからつい」

素直に見惚れていた理由を話すと、彼女はにこっと可愛らしく笑う。ありがとうと謙遜せずに受け入れる様子を見ていると会って間もないにも拘らず、田中葉月と会っていると実感できる。

葉月の視線が私の顔からテーブルの端の本へと移り、私の脇へと移る。家の庭で使う薬剤や殺虫剤が入った紙袋が置いてある。葉月は左手に巻いた腕時計に視線を落として、気遣うように言う。

「悪いわね、思ったより待たせちゃったみたいで」

葉月は専業主婦として家にいる私と違って、日々会社員として働いている。

どこかのIT会社の社員さんらしい。法人を相手に色々と仕事をしていると話していたような気がする。リモートワークやフレックスタイムなどを導入していて外から見ればホワイトな会社に見受けられるけれど、中々に忙しい立場にいるのだと思う。

そうでなければ、多くの人が行き交い、人の顔が流れやすいショッピングモールの中にあるカフェを待ち合わせ場所に指定しないだろう。

座っても高い所にある顔を涼しげに見上げる。

「良いのよ、買いたい物があったから」

私は、家の庭で薔薇を育てるのを趣味にしている。主人のお陰で社会に出て働く必要のない私には、時間が沢山ある。家事もあるけれど、食洗機やドラム式洗濯機や自動掃除機等々によって、一日の多くの時間を家事に追われる必要はない。

充実した余暇を過ごすために、ガーデニングをしている。沢山の花々を植えて育てる趣味はなかったので、薔薇一つに絞って。鉢植えに一輪というわけではなく、庭全てで育ている。五月から六月にかけて見頃を迎えた天気の良い日などは、庭にチェアとテーブルを運び出してティータイムを楽しむのも好きだ。一人でも良いし、主人とでも良いし、主人じゃない女の人とでも良い。

そういう悠々自適な生活を送っている時に、近所に引っ越してきた葉月と出会った。

葉月の視線が再び私の脇へと流れる。訝しむような、私の答えに存在していない真意を探るかのような視線。軽く口角を持ち上げ、葉月は笑う。

「都合、良かったでしょう?」

「あなたの?」

「いいえ、あなたの」

葉月はきっぱりと否定して、何駅か離れた駅名を続けて口にして、そこを待ち合わせ場所にしたかったと話す。ここからそう遠くないけれど、待ち合わせには不向きと思われる駅。かなり前に私はそこへ行った覚えがある。住宅街が建ち並んでいる閑静な所で、周りにはカフェだとか本屋だとか時間を潰せる場所がない所だったと思う。飲食店なども見当たらなかったと記憶しているが、葉月の口振りから察するに、私が見つけられなかっただけで何軒かあるのかもしれない。

「そこだと説明に困ったでしょ」

気遣いをしてくれなくても良かったと言うことはできたけど、私は人から受ける気遣いを簡単に受け入れることができたし、気遣われることに対して謙遜したり否定する気はなかったので微笑を浮かべて認める。

「かもしれないわね」

アイスコーヒーが葉月の前に置かれる。

私は今夜女性と会って、食事をすることを主人に伝えている。帰りが遅くなるかもしれないことも合わせて。隠し事や嘘をつくことはできたけど、バレた時のことを考えると正直でいた方が良い。バレないようにすることもできるかもしれないけど、そういう隠し事は結局バレる。立ち振る舞いや仕草、声のトーンで勘付かれる。

田中葉月の名前は出していないけれど、近所の人ということは伝えているし、主人は鷹揚に笑って、認めてくれた。ようやく知り合いができて良かった、とも。

私は結婚して初めて、夜遊びをしている。それも、女の人と。ベッドを共にできるのなら、男の人でも女の人でもどっちでも良いけど、葉月は女の人じゃないと満足できない人で、私に声がかかった。葉月がもし男性だったら丁重にお断りしたけれど、幸いにも女性だったので、こうして会うことになった。

私を見る葉月の視線が何かの見間違いかもしれないけど、戸惑ったような困惑したような色を帯びた。でも次に気づいた瞬間には、普段の自信に満ちた色を帯びていたので、カフェの照明の加減のせいか本当に私の見間違えだろう。

明確に葉月が何かを考えている間が生じた。でも、それすら私の勘違いかも間違いかもと思わせるように、葉月はアイスコーヒーに口を付けて自然と沈黙を生み出す。他のお客さんの高い話し声が聞こえてくる。

朝に会う葉月はこんなふうに沈黙を楽しませないのだけれど、昼と夜とでは違うらしい。重たく固そうなジャケットを羽織る彼女の肩は凝っていて、それが全身に広がり、緩慢としているのだろうか。こんな時間にアイスコーヒーを飲むあたり、仕事に疲れているのかもしれない。でもこの時間帯を指定したのは葉月なので、私から彼女の体調を考慮するような真似はしない。もしかすれば、全て私の勘違いなのかもしれないから。

薔薇は花開いている間は綺麗だがそこに至るまで人知れず葉の色が悪くなったり、花弁が腐ったり、虫に襲われることがある。沢山の薔薇を育ているので、そういうことはよくある。対策を打つこともできるけれど、毎日の観察を怠らない、変化を見逃さないことで予防できる。

やはり葉月は、私に薔薇を彷彿とさせる何かを有している。朝の光を受けている時が最も綺麗に見える辺りなど、特に。

沈黙を楽しむことに飽きたので、ティーカップをソーサーへと戻して、私はいつの間にか頬に昇っていた微笑を駆使して丸い声で伝える。

「意外ね」

葉月は長い眉を柔らかく持ち上げて、私の言葉を繰り返す。

「意外?」

「随分と静かだから」

葉月は再び視線を腕時計へ落とすと、私を見て穏やかな目つきになって余裕たっぷりに答える。

「時間が沢山あるから、無理に喋る必要はないの」

「朝はサービスしてくれてるのね」

「お気に召さない?」

サービスをしてくれるということは、好意の表れだと思う。私は受けられるサービスは余すことなく受けたいと考える人間なので、葉月のそのサービスは嬉しく思う。

「好きよ、サービスされていると分かると尚更」

「じゃ、今夜は良い夜になるわね。私、サービス精神に溢れているから」

「自分で言えるあたりが、田中葉月の凄いところね」

「受けられるサービスは拒まないのは有坂遥の美点の一つだと思うわ」

「そう?」

「遠慮や躊躇いを覚える人もいるのよ」

「でも、あなたはそういう人、好きじゃないでしょう?」

葉月は長い間社会人として働いている人らしい言い回しをした。

「それはそれで良いと思うわ。一歩引いて物事を見れるってことじゃない?」

「社会人らしいこと」

素直な感想を口にすると、葉月は口角を巧みに上げて分かりやすく微笑む。痛いところを突かれたと誤魔化す笑みでもなければ、苦笑でもない、相手に不快な思いをさせない簡単な笑顔。

話が社会人のことへと展開したこともあってか、葉月が訊く。

「有坂さんは働かないの?」

「主人が十分仕事をしてくれてるから良いの」

「働きたいと思ったこともない?」

「だって、面倒じゃない?」

社会に出て働いた方が良いことがあるのは、分かる。社会的な繋がりがあった方が良いだろう。でも私は、面倒事に巻き込まれるのは嫌いだ。面倒事は避けて、楽しめることだけを楽しめたい。子供っぽい理屈かもしれないけど、それで人生を楽しく過ごせるのならそれで良いと思っている。

私の返答に、葉月は安心したように笑う。

「良かったわ」

「良かった?」

「私と会うのは面倒事にカウントされないってことでしょ」

「今夜が最後かもしれないでしょ?」

「なら、最高の夜にしないといけないわね」

葉月はアイスコーヒーを飲み干すと、そろそろ行きましょうか、と言って、立ち上がる。

カフェからショッピングモールまでの入り口を歩いて分かったことがある。葉月は歩くのが早い。早いというのは語弊があるかもしれない。高いヒールが、カンと音を立てるのがずっと一定の速さを維持していて、なんだかそれが怒っているようにすら感じ取れる。社会で生き抜くのに、怒りをエネルギーに変換して生きているようだった。そんな背中を刺激しないようにヒールの低いパンプスで追いかける。

そういう社会や怒りと全然没交渉な世界で暮らしている私が知らないだけで、多くの人は葉月のように感情をエネルギーに変換して日々を生きているのかもしれない。

葉月はいつの間にか外に出て、一台のタクシーを停めていた。後部座席に二人並んで座る。奥へと座る葉月は狭い車内で長い足を器用に組んで、呆れたように言う。

「マイペースね」

棘のある言い方のように感じられたけど、薔薇に棘があるのは当然なことなので、全然痛くなかった。私は穏やかに笑う。

「時間、あるんでしょう? 楽しまないと損よ」

「この短い間に何か楽しいことでもあった?」

「没交渉の世界を垣間見たわ」

なにそれと葉月は笑うと、運転手に行き先を告げる。先程口にしていた地名とは全然違う、繁華街の名前を。私が学生の時に、大学と同じぐらい足繁く通ったことのある所で、お昼間も夜も変わらず賑々しい街。夜を十分に楽しむために必要なものが全て集まっている所。

眼下に広がる景色には、私がよく通っていた時と比べて高い建物が増えていた。葉月が案内してくれたレストランはホテルに併設されていたし、きっとホテルが増えているのだろう。

いつの間にか降っていた雨に、真昼間の騒々しい雰囲気は洗い流されていた。はっきりと見えないけれど、まだ暗い色の雲が辺りに漂っていそうだった。

コース料理の良い所は、間を持たせるのに苦労しないところだと思う。運ばれてくる料理について話したり、ワインを選んだりしていると時間は簡単に過ぎていく。当たり障りのない会話を繰り返して同じ時間を過ごし、同じ料理を食べていると何となく、悪くない雰囲気になる。

ホテルにはバーも併設されていたけれど、もう少し静かな所でお酒を楽しみたいという葉月の希望もあって、私は葉月が宿泊しているホテルの一室に通された。最初から二名で予約していたらしく、ダブルのベッドが置いてある。

窓際に備え付けられているソファスペースで寛ぎ、食後酒のワインを二人分注ぐ葉月はバスローブを纏い、鼻歌を歌っていて、見るからにご機嫌だった。映画のワンシーンを眺めているような感覚を陥りそうになる。

シャワーを浴びていた間に思っていたことを、葉月に伝える。

「もっと賑々しい所に案内されると思った」

品数は少ないけれどちゃんとしたコース料理が出てきて、ワインも選べるお店に案内されるとは思ってなかった。

葉月はそう思っていなかったらしく、ベッドサイドのテーブルに、ワイングラスを二人分を持ってきて、意外そうに首を傾げる。

ベッドで横になって見上げる葉月は、背も高いし、足も長いし、腕も長いし、首も長い。

「そう?」

「ええ」

化粧を落として淡い顔立ちになっている私と比べて、葉月はいつでも華やかだった。遠くから見ているといつでも目の保養になる感じの美人。

ベッドサイドに座っていたかと思うと、葉月の私の隣で横になる。ぐっと顔が近くになる。彼女の彼女らしくさせているのは手足や背丈の長さではなく、この瞳なのだろうと思う。化粧をしてなくてもはっきりと感じさせる力強い目つき。

「私はそれでも良いけど、あなたは違うでしょ?」

「別に良かったわよ?」

隣の人と肩がぶつかるかもしれない距離感で、匂いが強くて味の濃いヘビーな料理をお酒と共に楽しむというのでも私は良かった。社会で生きている人と飲んでいる気がするし、普段食べないようにしている物を食べられるのも良い。

コース料理の最後に食べた苺のミルフィーユとはまた違う甘いワインの香りが、葉月の声から漂ってくる。

「そういうのは、酔ってもちゃんと家に帰してくれるご主人と行った方が楽しめると思うわよ」

これまで繰り返してきた会話の中で聞いてこなかった迷いが、私の耳朶を打つ。私の肌に触れる指も、髪を撫でる手も、表情も普段と変わらないのに、声だけはしっかりと不安と心配に彩られている。お酒や夜がもたらしたセンチメンタルだと思ったり、私を引き込む演技と片付けるのは難しかった。

意外とカフェで繰り返した言葉をまた呟くことはできたけど、葉月は私が思っているよりもずっと真面目に考えてそうだった。

私はつまらなさそうに息を吐いて、真面目そうな調子を意識的に作って、葉月の不安の解消に努める。

「ベッドで他の人を考えるのは、よした方が良いわよ」

自信家であるように見えて、案外そうではないのかもしれない。そう思わせるものが、今の葉月にはあった。

自然に育つ薔薇は、人間が育て上げる薔薇とは違う美しさを有している。不必要なものを削ぎ落とした、シンプルで力強い美しさがある。それはそれで良いけれど、私の趣味じゃない。自分で管理して、育て上げ、美しい花を開かせる方が良い。そういうことをするには、花に対して理解を深める必要がある。

私は葉月と長く、多くの時間を接しているわけではないので、今の葉月が発言が本心なのかどうかは分からない。こうやって私に話させるのも、彼女の掌の上かもしれない。ただ私は可能であれば人の掌の上で踊っていたいと思っている。その方が気楽だから。

でも上手く踊らせてくれないとつまらないと思ってしまうタイプなので、つい訊いてしまう。

「それ、わざと?」

葉月は一瞬動きを止めた。それから乱暴に私の髪をかき混ぜる。

「もう少し騙されてほしかったんだけど?」

葉月の声から不安な色は消え去った。元の溌剌とした、芯が強いと分かる声音になった。まるでこっちが悪かったと思わせるものがあって、私は小さく声を立てて笑う。

「ごめんなさい、あまりに不自然だったから」

「難しいわね、こういうの」

「慣れないことはしない方が良いわよ」

「言ったでしょ、最高の夜にしてあげるって」

「サービスってこと?」

「そう、サービス。そういう部分も見せた方が、よく見えるかなって」

良かったと素直な感想を口にすることはできたけれど、不意にそう言いたくなくなってしまった。だから、彼女が喜ぶ別の言葉を与えることにした。

「あなたはそのままでも十分素敵だと思うわよ」

葉月は私の思い通り、私の言葉に、ありがとうとお礼を言ってくれる。賞賛を素直に受け止めてくれるところが、彼女の良いところであり、扱いやすいところでもあるように思えた。だから、私は彼女を良いと思うし、今夜が良い夜になると思えた。

葉月がそういう一面を見せて私にサービスしてくれた。私も一つのサービスを彼女にすることにした。

「ねぇ、葉月」

と呼べば、葉月はすぐに私の頬に触れる。

「急にどうしたのかしら?」

「私、お喋りで一晩を明かす趣味はないの」

短く告げると、葉月は笑った。

「良かったわ、私もよ」〈了〉

 


 

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