絶賛休んでいます。小説を書いていない時間が非常に多くできておりますので、色々なことを考えます。
そういう紆余曲折の果てに、ユニセフのマンスリーサポーターになりました。毎月決まった金額が、口座から引き落とされます。
あえて、金額を書きます。3000円が、毎月、口座から引き落とされます。これが多いか少ないかは皆様の判断に委ねます。
3000円あれば、良い食事を摂ったり、本を数冊買ったり、ガチャ10連の課金ができたりします。そういうことに3000円を使っても良かったのですが、この欲望や欲求には限りがありません。どこかで自主的に区切りをつける必要があります。
自分のために使うのではなく、人のために使った方が良いのではないかと思っております。
先に明らかにしておきますが、これは何も社会貢献がしたいとかいうそういう善き心持ちから生じた行動ではございません。マンスリーサポーターになりましたが、僕は絶えず、これは褒められた行為ではないという意識を持っています。
支援する側・される側の関係になっただけで、何が善いことなのだろうか、とすら思います。支援を受けずに生活できた方が良いのではないか……? しかし、支援を受けなければ、衣食住は確保されず、死の影がすぐ側にあるような生活を送らなければならない。ならば、支援をした方が良いのかもしれない……。しかし、という堂々巡りです。
そういうことを考えているのに、どうしてユニセフのマンスリーサポーターになったのか、ということを以下に書き記しておきます。
僕は小説を書いています。プロの小説家となって小説を書き続けたいという考え、年に一度は純文学の公募原稿に出したり、公募原稿のクオリティーを上げるために習作を書き続けています。
僕はプロの小説家として活動したいという考えを有しながら、プロとして活動できなくても良いかな、という意識もあります。
これは別に公募に送り続けて、一次選考すら突破できないことからくる諦念ではなく、小説家というのは小説を書いていれば、小説家である、という意識からです。
つまり、小説家というのは、一人の人間の状態を意味しているのだろう、ということです。
そういう考えを有していますが、僕は自分の作品が百年先も読まれるようなことも考えます。古典として読み継がれることを願います。
夏目漱石が明治三十九年十月二十二日 森田草平に宛てた書簡の中に、
余はわが文を以て百代の後に伝えんと欲する野心家なり。
と綴っております。
あるいは、芥川龍之介は「後世」という作品の中で、
落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
と綴っております。
百年先まで読み継がれる作品となりますと、作品にそれ相応のクオリティーが求められると思います。アマチュアの作品がずっと読み継がれる可能性は低いです。ですので、一定のクオリティーの保証として、新人賞や文学賞を受賞したいと考えています。
どれほど良い作品を書いたところで、小説というものは、読者がいなければなりません。百年先の読者のことなど、何も分かりません。ですが、百年先に向けて書いている今、百年先にいるであろう読者に向けて何もしなくて良いのだろうか、と思います。
何かした方が良いのではないだろうか。僕が今、遠い未来のためにできることはなにか。
今を生きている子供達が生きなければ、百年先の読者は存在しないのではないだろうか。
ゆえに、今の子供達を支援する必要があるのではないだろうか。
紛争や戦争で衣食住すらままならない子供達の支援の方が喫緊。
国内で小説を書いているのに、国外の子供達を支援するのはおかしいことなのではないか。国内の支援の方が先なのではないか、と思われる方はおられると思います。
理に叶っているご意見だと思います。
どちらの支援も大切です。僕は子供達の命の危機という観点から考え、国外を優先するという次第です。