ミッドナイトブルーの夜

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「ミッドナイトブルーの夜」

 再会は二時間振りだった。

 宮本かすみはプラットフォームへと続く階段を降りながら、濡れた傘を巻く。屋根には遅い梅雨入りを取り戻すように雨音が集まっている。ローヒールのパンプスが一段、また一段と階段を降りる度に、高い音を雨音の中へと加える。

 ホームに備え付けられたベンチに、一人の女性が座っている。終電まで残り少ない、先程出たばかりの電車に間に合わなかったらしい。次は急行電車が通過します、というアナウンスが流れる。疑問と安堵に似たような思いが言葉としてかすみの口から飛び出しそうになり、急いで口の端を結ぶ。

 ベージュのブラウスに膝下丈のピンクベージュのフレアスカート、書類が入る程度のアイボリーのトートバッグ。送別会で見かけた時と変わらない本庄沙耶の姿が、そこにはあった。

 かすみは結んだ口の端を持ち上げ、足を止めた。張りのある声が、人影のほとんど見えないプラットフォームに広がる。

「あれ? 忘れ物?」

 くりっとした丸いブラウンの目が、かすみの方を向く。控え目なチークの下に、白い肌が透けて見える。眉の上で切り揃えられた前髪が、湿気で額に張りついていた。こんな遅い時間帯でも唇にはほんのりと赤いリップが乗っている。そっと周りを気遣うような控えめな声が、発せられた。

「……寝過ごしてしまって」

「そんなに飲んでた?」

「飲んだ覚えは……」

「それは結構飲んでそうね」

「そう?」

「うん、そう。お隣、良くて?」

「ええ、どうぞ」

 沙耶の隣に腰を下ろし、かすみは柔らかく労いの言葉をかける。

「主賓、お疲れ様」

 沙耶は白い頬に労うような、柔らかい笑みを浮かべる。

「ありがとう。幹事、お疲れ様」

「まだお疲れ様じゃないのよ」

「……後、何かあった? 二次会の会費の回収とか?」

「回収は終わっているからご安心を。後は、皆がちゃんと帰れたら、私の今夜の務めもおしまい」

 沙耶の頬が硬くなったように見えた。

「帰るはずだったのよ」

「らしいわね。まぁでも良かったじゃない、途中で目覚めて」

「残念ながら、しっかり終点で起こされたわ」

 沙耶はトートバッグからペットボトルのアイスコーヒーを取り出して、飲む。隣から漂う香りに、かすみは立ち上がり、自販機でアイスコーヒーを買った。

「……だからこの時間なわけね」

「そう。今後は、烏龍茶しか飲まないようにするわ」

「難しくない?」

「強くなくてとか飲めなくてとかで通したいわね」

「随分と難しいことを考えるじゃない?」

 上座でビールを飲んでいた沙耶の姿が、かすみの脳裏に蘇る。送別会だけではない、市役所に同期として入庁したかすみと沙耶は、新人歓迎会や忘年会、新年会で顔を合わせることがあった。沙耶はそういう酒の席で、ビールを飲んで、涼しい顔をしている。

 沙耶のさっぱりとした声が、膜のように降り続ける雨を引き裂く。

「次の職場では大丈夫でしょ」

「……働くんだ」

 語尾を上げようとした声は、かすみの想像を裏切るように本心を曝け出す低い調子だった。沙耶は気づいていないように、変わらない調子で続ける。

「転職先を決めてからじゃないと、思い切れなかったから」

「もう次、決まってるの?」

「七月の一日から」

「早いわね」

「まぁそのために色々と動いたから」

「そうなんだ……思い切る必要なかったんじゃない?」

「え?」

「実質、転職みたいなもんじゃないの? 東京の関連団体への異動なんて。断る必要なんてなかったんじゃない?」

 沙耶は小首を傾げ、かすみの顔を覗き込むように近づけてくる。

「あなた、実は酔っているんじゃない?」

 かすみは自分の頬に手を添えると、火照ったような熱が帯びていた。

「そうかもしれないわね」

 沙耶は満足したように小さく笑い、かすみから顔を離す。

「この場合は転勤だし、それは期限付きよ」

「部長補佐がついてくる、ね」

「聞いたの?」

「噂よ噂よ」

「本当?」

「急な人事異動だったからね、私」

 数年前の上期でも下期でもない中途半端な時期に、かすみは沙耶の所属する地域政策課に異動した。中途半端な時期の異動であったが、他の課と大きくは変わらない日々の業務に迎えられた。

 今年度になったある日、人事課の課長から居酒屋の席で聞いた。どうして中途半端な時期に異動になったのか、と。可能性や噂、予想や憶測という言葉を繰り返し使われたが、近い将来、地域政策課が人員不足になることが知れたのである。

「優秀な同期がうちの課に来てくれて、助かったわ」

「人事課は大変みたいよ。一人で済むと思ったら、予定外の欠員が生じたんだから」

「随分とお喋りなのね……課長が言ってた?」

「予想を話してくれただけよ」

「ってことは、出世おめでとう?」

「流石にまだなんじゃない?」

「そう?」

「そうよ」

 短く言い切る。一瞬の沈黙の中で、かすみは、沙耶がもう別の場所で働くことを噛み締める。かすみはなるべく自然を装い、訊いた。今の今まで不思議と避けていた話題。他の誰かであれば、雑談の中で話題を振っても良かったのだが、沙耶の場合、そうすることができなかった。

「退職理由って、親の介護?」

「還暦過ぎても全然元気だわ」

「それじゃ寿退社?」

「残念だけど、それも違うわ」

 かすみは口角を持ち上げて、笑う。

「噂よ」

「あなたの周りは随分と色々な噂が流れているのね」

「ええ、そうね」

「退職するから訊くけれど、他にどんな噂があるの?」

 過去を思い返すように、かすみは薄く目を閉じる。数々の思い出の中で、鮮やかに残っているものを噂として沙耶に伝える。

「そうねぇ……。とある職員が告白されたけど、返事をせずに退職しようとしている、とか?」

 ホームに急行電車が通過するアナウンスが流れた。雨の中を突き進む急行電車が、ホームを通り過ぎる。沙耶の口が何かを言うように動いたが、かすみの耳には届かなかった。手に持つ缶はもう軽く、かすみは腰を上げた。少しずつ小さくなる急行電車の光を追いかけるようにホームを歩く。ゴミ箱に缶を捨て、ベンチから動かない沙耶に問いかける。

「そろそろ、答えてくれても良いんじゃない? ……きっと、もう会うことはないんだろうし」

 沙耶の顔に浮かぶ微笑は、仕事の時に見たことがある困った時に見せるそれだった。

「帰り道、一緒じゃない」

「タクシーで帰るわよ、そうなったら」

 沙耶の微笑に呆れたような調子が混ざった。

「だから気にせず、答えてちょうだい、ってこと」

「そう」

 かすみが朗らかに笑うと沙耶の眉が眉間に寄る。

「外堀を埋め過ぎじゃない?」

「自分の欲しいものはちゃんと手に入れたい主義なの」

「良い主義ね。でも、全てを手に入れることは無理なんじゃない?」

「その時は……」

「その時は?」

「諦めるしかないわね」

「意外。潔いのね」

「手に入らないと分かったから」

 かすみが異動してから、沙耶に告白したことがある。考えさせてほしい、とあの時、沙耶は答えた。あの時からどれほどの時が過ぎただろうか。保留のままであることが何を意味しているのか、告白した張本人であるかすみが最もよく分かっている。受け入れられなかったということは、分かっている。分かっているのだが、それならばそれで、沙耶の口から聞きたい。そういう気になれない、職場の人間とはそういう関係にならないようにしているなど断る理由はいくつでもあるはずだ。

 沙耶は真っ直ぐにかすみを見ている。丸いブラウンの瞳が涙を浮かべたように潤んでいるのは、雨やホームの照明のせいだと思い込むのは難しかった。

「どうして私なの?」

 沙耶の隣へと腰を落ち着かせ、かすみは真夜中に似合わない明るい声で、昔と同じ答えを口にする。

「タイプ以外にある?」

 沙耶の目元が柔らかい弧を描き、目の端に涙が滲む。沙耶は細い指先で拭う。

「変わらないのね」

「変わってほしかった?」

「少しは……?」

 かすみはこれまで沙耶と過ごした日々を思い出す。同期として初めて顔を合わせた日から異動して再会した日、告白した日……。かすみが沙耶を選んだ理由は、かすみが思うよりずっと早く、意識していなかったように自分の口から出た。真っ直ぐ、沙耶の揺れる瞳を見て、答えられた。

「安心するんだと思う」

 時が止まったかのような沈黙が、二人の間に広がる。宮本かすみには似合わない、甘い言葉だと気づいたのはすぐだった。二人の口から、否定の言葉も疑問の言葉も続けて出なかった。会話を続けるのはかすみの役目のように思えて、喋り過ぎだと分かっていても伝える。

「自分が自分でいられることを、無意識にあるいは無自覚に認めさせてくれるから」

 沙耶の揺れる瞳が、かすみを見る。

「私、あなたにそんなに優しくした?」

「いや、全く」

「そうよね」

「多分、だからだと思う。本庄沙耶は誰が相手でも変わらないんだな、って」

「それ、本当に言っている?」

「ええ、とっても」

 沙耶は頭痛に耐えるように指先を額に添える。少し眉間に皺が寄っているように見えた。

「……酔っていてほしかったわ」

 かすみは沙耶の予想を裏切るように、朗らかに歯を見せて笑う。

「あれくらいじゃ酔わないのは知っているでしょ?」

「同期として一緒に飲みに行き過ぎたわ」

「良い思い出じゃない」

「まぁ、悪い思い出じゃないわね」

 ホームに設置されている電光掲示板に、今日最後の電車が表示される。数本先の電車だった。雨はまだ降り止むことなく、屋根に高い音を集めている。かすみの首筋にぬるい汗が流れる。駅前のタクシーの列はまだあるだろうか、と一瞬考えた。かすみの少し浮いた腰を落ち着かせるように、隣から戸惑いを隠し切ろうとして上手くいかなかった、浮ついた高い声がかかる。

「あなたはそれで良いの?」

「別に職場が違う恋人なんて、ごまんといるでしょ」

 沙耶が何に対して思い悩んでいるのか、かすみには完全には分からなかった。ただ彼女の背中を押すことしかできない。

「今、思い切りが必要なんじゃない?」

「断られると思ってないの?」

 かすみの頬が震えたように揺れる。そういう思い切りを求めたわけではないのだけれど、という言葉は胸の中に留まった。

「明日になれば忘れているって約束できる?」

 沙耶の視線が宙をさまよう。

「ええ……いや、きっと、多分?」

 かすみは苦笑を返す。

「いいのよどっちでも」

「忘れる努力はするわ」

「ありがとう。それじゃ答えるけれど、きっと、断られると思うわ。今まで答えなかったことが何よりもその答えじゃない?」

 でも、とかすみは続ける。

「答えを聞かないで良いわけではないと思うの。私も思い切らないといけなかったよ。あなたが転職や退職で思い切る必要があったようにね」

「思い切らなくても良かったんじゃない?」

「その言葉、そっくりそのまま返すわ」

 息の詰まったような音が、隣から聞こえた。かすみは視線を向けず、別の言葉を待った。また別の言葉が、控えめに隣から聞こえる。

「これから話すこと、明日になったら忘れてくれる?」

「ええ」

 沙耶の小さな声が、ホームへと滑り落ちる。

「私、ずっとこの街に住んでるの」

「そうね。私もよ」

 笑い声を押し殺したような声が、隣から聞こえた。沙耶の言葉が続く。

「生まれてからずっとね。学生の時もそう。勿論、就職してからもね。それでずっとこの街に居るんだろうな、と思ったのよ。でも、転勤の話を持ちかけられた時とかに、このままで良いのかなと不意に思うようになったの」

 かすみは結論を急ぐように、だから、と続けたかったが、沙耶の言葉で語られるのを待った。

「だから、思い切って別の道を行こうって」

 周りくどい発言の数々に、かすみは自分の想像とは全然違うところに沙耶がいるのではないか、と考えるようになった。別の道というのは公務員以外の道であると思うが、果たしてそれだけなのだろうか。かすみは短い問いを、沙耶に投げかける。

「いつから?」

「何が?」

「いつから、決めていたの?」

「あなたに告白された時、思った。私もこの人みたいに自分に対して正直になって良いのかもって」

 沙耶の頬には晴々とした、しかしどこか陰りのある笑みが浮かんでいる。

「あなたの主義が知れたから私も一つ、教えてあげるわ。私、遠距離恋愛はしない主義なの」

 かすみは短く、沙耶がそうしたようにその主義を肯定する。

「良い主義だと思うわ」

 電車が夜闇や雨を切り裂くようにホームへと滑り込んできた。かすみは腰を上げて、電車へ乗り込もうとする。沙耶はまだホームのベンチに腰掛けている。背中から、優しい声がかけられた。

「私はタクシーで帰るから」

 かすみは振り返ることなく、答えた。

「そう、お気をつけて。無事に引越しが終わることを願うわ」

 沙耶の口が大きく動いた。さようなら、と言ったのであろうか。あるいは、ありがとう、と言ったのであろうか。かすみは小さく手を振り、その言葉に応じた。屋根に集まる雨音のせいか、電車のドアが閉まったためか、本当の言葉は、かすみの耳には届かなかった。

 一駅先で降りたり、連絡を入れれば、彼女の最後の一言を知ることはできるだろう。しかし、かすみはそういう主義ではなかった。手に入らないと分かったものは諦めるしかなかった。〈了〉


 

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