「あの時読まれなかった手紙」
成瀬慎二が商店街の一角にある実家の定食屋・なるせに帰ると暖簾が掛かっておらず、引き戸の前には七日から営業します、という張り紙が貼られていた。並んでいる飲食店には同じ張り紙が貼られていたり、他の店にはシャッターが下ろされ緑の門松だけを立てているのが目につく。去年や一昨年は三が日が終われば実家を含めて営業していた覚えがあるのだが、今年は違うらしい。
ゆっくりと戸を開けると、いつ見ても変わらない小さな店内がある。右手には住居となっている二階に続く階段がある。店内の奥には祖父の代から使っている古びた木製のカウンターがあり、そのまた奥には照明が落とされている厨房が広がっている。一組みしかない二人掛けのテーブル席には、帳簿を整理している母親の後ろ姿が目についた。店は営業していないはずなのに割烹着を身につけ、白髪の目立つ長い髪は作業の邪魔にならないように後ろで一つにまとめられている。皺だらけの細い指先が慣れた様子で素早く電卓を叩く音が続いている。机に置かれているラジオからパーソナリティが単調なリズムの隙間を埋めるように、晴れやかな声で今年の抱負についてを話している。
母親は振り向き、張りのある声を上げかと思えば、すぐに勘違いを取り繕うような低い調子に変わった。胸元のポケットには老眼鏡が縦に差し込まれている。
「堪忍、七日から……あんたかいな。お帰り。あけましておめでとう」
成瀬はまだ東京で働いている時のような感覚を引きずったまま標準語で言う。
「あ、うん、ただいま。あけましておめでとう。三日からやらない?」
「やらんよ」
「兄貴の一声?」
「大助が、っていうわけやないんよ。開けようと思ったら開けられるんやけど、そんなぎょーさんお客さん来るわけちゃうしな。せやったら、思い切って休んだ方がええやろって。バイトの子もおらんしね」
「なるほど、思い切ったわけだ」
「別に思い切ったわけちゃうよ。お父さんみたいに頑張って身体いわすのちゃうやろってこと。あたしも倒れたら、大助も皆大変や」
父親は仕事中に病院に運ばれた。脳梗塞と診断され、後遺症があり、自分の足で満足に歩くことができず、ちゃんと話すのも難しくなった。二階で生活をしている実家では父親の世話をすることはできず、店を続けるかどうかの瀬戸際に立たされた時、次男を除く成瀬家は親子代々続く店の継続を選んだ。父親は施設に入所して随分と経つ。
「まぁ確かに。兄貴は? 上で寝てる?」
成瀬は視線を天井に向け、ようやく声を潜めた。母親は手を動かし、口元に持っていく。
「お父さんの様子見に行くついでに挨拶回りに行ったわ」
母親は帳簿や電卓をまとめてると厨房の棚にしまい、そのまま電気のスイッチを押す。店内は一気に明るくなり、にわかに活気づいたように感じられた。真新しい白い光を受け、大小様々な雪平鍋が煌めく。うどんや蕎麦を茹でる大きな寸胴や出汁や汁を用意する寸胴はガスコンロの近くでその役目を果たす時を静かに待っている。母親はそういう大きい鍋には目も暮れず、片手鍋を持ったまま、曲がった腰を反らせるように伸ばし、大きな冷蔵庫の中身を確認している。
成瀬は母親の後ろ姿を見ながら、幼かった頃のことを思い出していた。あの頃はまだ祖父が厨房に立っている頃だった。成瀬が小学校に登校する頃、祖父は祖母も息子も居ない店内で、掃除や包丁の手入れや食器の状態を確認していた。祖父は成瀬が階段を駆け下り、店の引き戸を開ける時に、ご飯はちゃんと食うたか? と訊かれることがほとんど毎日あった。まだ、と言うとかけうどんとおにぎりをすぐに出してくれた。父親の代になると、成瀬はもう大学に進学し、実家を離れたため、そんなことはなかった。
「そんで、なに食べたい?」
冷蔵庫のドアを閉める大きな音と母親の質問が重なり、成瀬は現実に帰ってきた。厨房の作業台には、一人分の黒い盆が置かれており、箸と丼鉢がある。先ほどまで冷やしてあったのであろう黄金色の出汁が入った容器も置かれている。
「おかん」
「なに? もう食べてきたん?」
「あ、いや、まだ」
「せやったら、なんか食べた方がええやろ」
「上で良くない?」
「あんた、新年やで?」
「うん」
「せやったら、こっちで食べなあかんやろ」
「おかん」
「後、あんた、その気持ち悪い標準語やめや」
「……俺、お雑煮がええわ。お餅と白味噌だけのがええ。あ、昆布出汁だけで頼むわ」
「せやせや、それでええ」
母親は丸い顔を一層丸くすると、出汁の入った容器をしまう。白味噌を取り出すと、別の容器を取り出した。昆布が水に浸かっており、透明で澄んだ色合いをしている。
「上から、食べたいだけお餅持ってきぃ」
「どこにあんの?」
「去年と同じとこ。流しの戸棚にしまってるわ」
「おかんは?」
「いらん」
成瀬は少し急な階段を登ると成瀬の重みを受け軋む。
階段を登ると、正面にキッチンと和室の居間が見えた。左手には襖が開け放たれ寝床があった。畳の上に、二人分の寝具がまとめられている。ベランダへと続く寝床の大きなカーテンは開けられている。遠くに聳える山の頂きは白い化粧が施され、曇天の空模様と同じ色合いになっている。駅では多くの人が降りたのだが、商店街から続いている石畳の通りには疎ら人影が見えるだけだった。ここの観光地といえば昔は、駅前から商店街を通り抜けたところにある寺や神社だったのだが、今では違うのだろう。思い返せば、駅前の案内図には寺や神社以外を指し示しているものが増えていた。
雲の隙間から洩れ出る陽の光は全然居間まで届かない。成瀬は軽く手を伸ばし、居間の電灯の紐を引っ張る。
居間の中央には丸い卓袱台が置かれており、湯呑みや急須、煎餅や新聞がある。仕事で使っているのであろう分厚いファイルが棚にまとめられている。一階の厨房と比べて全然狭いキッチンには、二口のガスコンロには一階で見たような片手鍋が置かれており、小さな冷蔵庫があるだけだった。流しの側の戸棚を開け、丸餅を二つ持つ。階段を降りようとして、成瀬は柱に額をぶつけそうになった。少し身を屈めて、階段を降りる。カウンターの一席に、湯呑みが置かれている。成瀬は餅を母親に渡し、席に着く。
母親は昆布出汁を火にかけながら、成瀬に訊く。
「仕事の方はどうなん?」
「去年と変わらんよ」
「ほんまか?」
「そう簡単に大変にならんわ」
成瀬は今ではプロジェクトの進捗や各チームを運営や管理するマネージャー職として働いている。年末年始にまとまった休みを取るようにしているのも、そういう休暇を取れることを部下達にアピールするためだったりする。ただ母親にとってしてみれば、息子は今でもエンジニアであり、東京で何か物作りをしている、という新卒の頃と変わらない印象なのだろう。
「よう聞くで。なんか炎上して人手不足でとか」
「どこで?」
「ネットとかニュースとかで」
「信用せん方がええよ」
「息子が東京で一人で頑張ってるってなると、気になるんよ」
「ぼちぼち、お餅入れた方がええんとちゃう?」
「話題変えるん下手か?」
母親は成瀬の言葉を受け、丸餅を温めた出汁の中に入れる。火を弱め煮ると、母親は厨房の片隅に置いていた椅子に腰掛ける。
母親は成瀬を気遣ったように話題を仕事から別方向へと展開させる。
「そんで、恋人はできたか?」
成瀬はすぐに母親の期待を切り捨てるように答える。
「おったら帰ってきいひんわ」
「なんやおもんない。なんか気になる人とかもおらんの?」
「息子の恋路を面白がるんやめーや」
「大助なんてあんたぐらいの歳にはもう結婚したってのに……」
「俺はどうせ出来の悪い次男ですわ」
「そこまでは言ってへんよ」
「言うてるて」
「堪忍堪忍」
母親しかいない店内はやけに広く感じた。兄貴は厨房に引きこもっていることが多いが、義姉が厨房とカウンターを行き来しているのをよく見る。背丈は低く小柄だが、よく笑い活気のある人だった。飲食店にぱっと明るい花が開かせられる人。
「あ、七日から営業って、姉さんの帰省のため?」
「今頃、気づいたん?」
「姉さんと話す機会なんて全くないしな?」
「連絡取らんの?」
「取ってどないすんの?」
「元気にやってるとか色々あるやろ」
「姉さんは元気でしょ」
「せやけど、あるやろ、こう……だから独身なんやで?」
「はい?」
母親は腰を上げ、火を消すと白味噌を加え、溶かす。味見をして、砂糖と薄口醤油を加えると、丼鉢へと注ぐ。湯気の立つ丼鉢が乗った盆を成瀬の前に置くと母親の厳しい声が飛んでくる。
「あんたその調子やと、中原くんにも連絡してへんのちゃう?」
「中原……?」
成瀬はその名前を聞いて、すぐに自社で新卒として入社した男の顔を浮かべた。独り立ちするにはまだ難しいところがあるが、落ち着いて考える時間を与えれば光るところがある新入社員である。その中原と母親が顔馴染みだとは思えない。成瀬が紹介したこともなければ、中原の口から実家の定食屋に行きましたなどということを言われた覚えもない。ということは、別人の中原のことを母親は言っている。
成瀬は熱く、甘い白味噌を味わいながら、二人が知っている中原について考える。柔らかく煮込まれた餅は箸で摘むと、よく伸びた。一人の人間に行き着いた。
「あ、中原淳?」
「忘れてたな?」
「急にどうしたん?」
中原淳は、成瀬と同学年であり中高が一緒だった男である。物静かで色が白くて線の細い少年時代のあの頃の中原が、成瀬の脳裏に蘇る。話したことは少ないが、いずれもその物腰の柔らかさに驚いた記憶がある。成瀬や母親のようにこの地域特有の話し方をするのだが、発せられる音自体が柔らかく、それがそのまま中原の印象を良くする。
成瀬の知っている中原淳に関する記憶はそれくらいだった。連絡先を交換したこともない。大学の進路先は別だった。成人式で見かけた記憶もない。社会人になってから中学や高校の同窓会で再会した覚えもない。もしかすれば、同窓会の中で中原のことが話題に上がったことすらなかったのではないだろうか。今現在、どこでどういうふうな生活をしているのかは当然知らない。
ただ、母親の口から中原という言葉が出たということは、彼が最近この店に顔を出したということだろうか。
母親は厨房に置いてある棚から一通の封筒を取り出し、カウンターへと滑らせる。どこにでも売っているような白くて細長い無地の封筒だった。裏面には、締めマークとして封という字が黒いボールペンで書かれており、中原淳の名前が書かれている。
「あんた宛てに、中原くんから郵便が来てな」
「は? え? 郵便?」
郵便という響きに懐かしさを覚えながら、それが中原から実家に成瀬慎二宛てに送られてきたということに戸惑いと驚きを覚えた。
「年賀状?」
成瀬の問いは、封筒の消印が去年の二月であったことで否定された。
「来てたなら、はよ言うて」
「連絡取り合ってると思うたんよ」
「俺が中原と?」
「仲悪かったわけちゃうやん」
「いや、まぁ、そうやけど……。転送とかできたんとちゃう?」
成瀬が尤もらしいことを言うと、母親は分かりやすく話題を転換させた。
「北海道なんて、酪農とかやろか?」
「それはないやろ」
「分からんで?」
「おかんが中原の何を知ってんのさ」
「あんたもやろ」
「そりゃそうやけどさ……」
母親が言ったように、中原淳の現在の住所は北海道の函館らしく、封筒にはそう書かれている。秋がないと言われ、この時期には寒さが一段と厳しくなっている地で生活している中原の姿を、成瀬は全然想像できなかった。彼はもっと南で、温暖な場所が似合うのではないだろうかと勝手に思う。そういうふうに思ってしまうのは、中原淳という名前が、一字違いで一人の小説家の名前になり、苗字だけだと一人の歌人に接近するためであろう。また中原自身の色の白さも、きっと彼が温暖な地で暮らしていると思わせたのかもしれない。函館では、雪と一緒になってしまうのではないだろうか。
そんな心配をしながら、成瀬は封筒の封を切った。中には折り畳まれた便箋が入っている。三つ折りを開けると、黒いボールペンで丁寧に書かれた文章が現れた。
――突然の郵便で驚かせてしまって申しわけありません。僕は今、入院しています。電話は使えません。話し相手が欲しくなり、同級生の中で数少ない住所を覚えている人に向けて書きました。もし良ければ、返事を書いてください。待っています――
「……入院してるってさ」
成瀬は中原からの手紙を簡単にまとめて、母親に伝えた。
「入院? どうして?」
「さぁ? そこまでは書いてない。訊く?」
「え、いや、……好きにしたらええんとちゃう?」
「急に弱気になってどうしたん?」
「中原くんがどういう生活してるのかは知らんけど、関西から北海道、しかも函館で入院って、大病でも患ってるんとちゃうか?」
「携帯使えんらしいなぁ……」
成瀬はそんなことを呟き、母親から手紙一式とペンを貸してほしい、と伝える。母親は眉を顰める。
「返事書くん?」
「え、何その顔」
「いや、意外やなって」
「そう?」
「去年のやし、もうええかとか言うと思った」
「それも思ったけど、まぁでも入院とかってなると、心細いところもあるやろ」
成瀬の脳裏には入院してから実家に帰れなかった父親の姿が浮かんでいた。あの時、成瀬は誰の力にもなれなかった。成瀬が実家に戻ったところでできることは何もなかった。キーボードを叩いて何か作ることができても、父親の介護も厨房で働くこともできない。家族が大変な時に、成瀬は一人、東京で自分の生活を続けていた。あの時の胸の騒々しさを、中原も味わっているのではないだろうか。そんな予感があった。
成瀬は母親から封筒と便箋とペンを受け取ると、簡単な文章を書いた。返事が遅くなったことを詫び、もしまだ返事を書けるのであれば書いてほしいと続けて、自分の家の住所を書いた。
封筒に中原の入院先の住所を書いた。裏面に自分の住所を書こうとして、成瀬は手を止めた。
「何号室とかそういうのっていらん?」
「そこらへんは向こうの人がやってくれんのとちゃうか?」
成瀬は母親の言葉を受けて、自分の家の住所を書いた。そうして封筒を糊付けし、同じように封の字を書いた。成瀬は丼鉢に残っている雑煮を食べ終えると、すぐに立ち上がった。
「ちょっと出してくるわ」〈了〉
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